夕凪と、動かなくなった夕方

夕凪と、動かなくなった夕方

語現体鴇江市夕凪看取り

涼しいですね、と店の主人が言った。鴇江川の南、遊歩道に面した古い喫茶店の前だった。夕方の六時を過ぎていた。風はなかった。暖簾が垂れたまま動かない。主人はもう一度、涼しいですね、と言った。わたしは、そうですね、とだけ答えた。涼しくはなかった。

その前の三日、川沿いの風速計が同じ時刻に零を指していた。零を指す時間は、一日目が四分、二日目が十一分、三日目が二十六分だった。数字が伸びている。伸びていることを、誰も気にしていなかった。灯番号 T-20260803-02 として受理したのは、八月三日の午後六時十二分である。

語は七月の終わりから使われはじめた。夕凪。市の広報が涼を呼びかける文の中で使い、それを商店街の掲示が引き、川沿いの店が黒板に書いた。三日で市内の投稿の中に千七百件を数えた。数が揃うだけでは足りない。像が揃うと閾に近づく。

わたしは聞き取りに出た。まず喫茶店の主人に聞いた。夕凪とはどういう意味か。主人は、涼しくて静かな夕方のことだと答えた。次に掲示を作った職員に聞いた。同じ答えだった。それから通りがかりの高校生に聞いた。やはり同じ答えだった。三人とも、涼しい、と言った。三人とも、静か、と言った。

夕凪は涼しくない。海の風と陸の風が入れ替わるときに、風が一度だけ止まる。風が止まるので、その時間はいちばん蒸し暑い。もともとは海のそばの言葉である。鴇江市に海はない。海のない街で、海のそばの言葉が涼しさの名前として使われていた。

白河が資料を持ってきた。正しい意味を印刷した紙だった。配りますか、と白河は言った。わたしは、まだ、と答えた。白河は紙を鞄に戻した。それから、まだ、とだけ小さく言った。わたしの言い方だった。訂正はしなかった。

六時四十分。遊歩道に出た。空気が、そこだけ厚かった。厚い、という言い方しかできない。押すと少し戻ってくる。冷たくはない。体温より少し高いくらいの、生ぬるい厚みだった。厚みには縁があった。縁の内側と外側で、匂いが違った。内側は、湯を沸かしたあとの台所の匂いがした。

厚みの中で、柳の葉が止まっていた。落ちる途中で止まっていた。地面から一メートルほどの高さで、葉は静止していた。指でつつくと少し動いて、また止まった。葉は乾いていなかった。濡れてもいなかった。そのどちらでもない状態を表す言葉を、わたしは持っていない。

近くのベンチに男が座っていた。市の職員の一人で、掲示の文を書いた人だった。わたしは声をかけた。返事はなかった。男の口は開いていた。開いたまま止まっていた。呼吸はしていた。胸は動いていた。動いていないのは、口の形だけだった。手も膝の上で止まっていた。指の一本だけが、まだ少し動いていた。

涼しいですね、と隣で誰かが言った。わたしは振り返った。誰もいなかった。

わたしは厚みに向かって尋ねた。あなたは何と呼ばれたいですか。返事はなかった。この質問に返事があったことは一度もない。それでも尋ねる。記録の様式にそう書いてある。様式を作った人がなぜそう決めたのかは、わたしは知らない。

厚みは動かない。追い払う方法は分からない。壊す方法も分からない。分かったことが一つだけある。正しい意味を知っている者から先に止まる、ということだった。掲示の文を書いた男は、書く前に辞書を引いていた。白河が調べてきた。男は正しい意味を知ったうえで、涼しい、と書いた。知っていて、書いた。それが早い順の理由なのかどうかは、分からない。

わたしは白河を遊歩道から出した。紙は配らないままにした。配れば、読んだ者から止まる。読まなければ、涼しい夕方だと思ったまま通り過ぎる。どちらが正しいのかは、わたしには決められない。決められないことを、決められないと記録に書いた。

翌日から言及が減った。夏の予定が動き、別の語が使われはじめた。八月の第一週が終わるころ、夕凪という語を使う人はほとんどいなくなった。風速計が零を指す時間は、二十六分から九分に戻り、それから測るまでもなくなった。厚みは川の面に薄く残った。手を入れると、まだ少しだけ戻ってくる。

職員の男は病院に運ばれた。呼吸も脈も正常だった。口の形だけが戻らない。医師は説明できないと言った。わたしも説明できない。止まったものを動かす方法を、わたしは知らない。知らないと書くために、記録がある。書いたところで、口の形は戻らない。

記録の最後に、いつもと同じ長さの空行を一行入れた。

帰りに商店街を通った。閉まった店の軒先で、消し忘れの提灯が一つ点いていた。昨日は二つだったと思う。数え違いかもしれない。数えるのはわたしの仕事ではない。

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