直撃と、めくれない紙

直撃と、めくれない紙

語現体鴇江市直撃住宅区

「ここは前は何という名でしたか」と、引っ越してきた男が言った。八月十一日の朝、鴇江市の北の埋立地である。三十七区と呼ばれる新しい住宅区で、街路樹はまだ支柱に縛られていた。男の問いに答えられる者はいなかった。合併の前の名を覚えている人が、この区には一人もいないからだそうだ。

三十七区の回覧板には、用語表という紙が挟まっている。入居の年に住民が作ったものだという。同じものを同じ言い方で呼ぼう、という取り決めである。ごみ置き場は集積所。集会所は寄合所。掲示板は看板。新しい土地では、まず言葉から決めるのだと班長の女性は言った。

用語表の裏には、使わない言葉の欄がある。旧い地名が三つ、消し線を引かれて並んでいた。合併で無くなった名だから使わない、というのがその理由だそうだ。話者が減った言葉は残らない、と誰かが書き足していた。書き足した人の名だけが、線で消されていた。

直撃という語がこの区で使われ始めたのは、七月の終わりだと聞いた。台風の話ではない。子どもが投げた球が看板に当たった日から、当たることを直撃と言うようになった。ただし三十七区の人たちは、直撃を「まっすぐ当たる」の意味で使わない。「避けようがない」の意味で使う。避けられないものが自分に向かってくるとき、彼らは直撃と言う。

誤りはそこにある。直撃は当たり方を言う語であって、避けられるかどうかを言う語ではない。だから避けられる直撃もある。それでも百二十世帯が、六週間のあいだ同じ像でその語を使い続けた。像のほうが、語の中身より強い。

八月九日の夕方、看板に紙が貼られた。誰が貼ったのかは分からない。紙には傘とだけ書いてあった。その夜、区の傘立ての傘が全部、骨だけになった。布はどこにも落ちていなかった。翌日の紙には自転車と書いてあり、朝には前輪だけが残っていた。

八月十日の夜、二軒隣の犬が鳴かなくなった、と隣の主婦から聞いた。紙にその犬の名は書かれていない。書かれていたのは首輪だった。首輪だけが玄関に残っていたそうだ。金属の輪は湿っていて、触ると生あたたかかったという。

三枚目の紙には、人の名が書いてあった。班長の女性の夫の名である。八月十日の朝、彼は紙を剥がそうとして看板の前に三十分立っていた、と聞いた。剥がせなかった。紙は板に貼ってあるのではなく、板の中にあったからである。夕方、彼は寄合所の椅子で見つかった。息はしていた。ただし、名前を呼ばれても返事をしなかった。今も返事をしない。

受理は前日の夕方で、灯番号の日付は今日になっている。日付が一日ずれた記録は、この夏に入って四件目である。わたしが看板の前に立ったのは、八月十一日の午前十時だった。板は体温より少し高かった。手を当てると、裏側で紙をめくる音がした。

規定どおり、わたしは尋ねた。何と呼ばれたいですか、と。返事はない。代わりに、板の中で四枚目の紙が白くなり始めた。文字はまだ無い。無いのに、わたしはそこに何が書かれるのかを一度だけ考えた。考えたことは記録しない。

寄合所には三度通った。一度目、彼は目を開けていた。二度目、瞬きの間隔が長くなっていた。三度目には、妻が名を呼ぶたびに、部屋のどこかで紙をめくる音がした。妻はその音のほうを見なくなった。見ないことが、いまのところ一番長く続く方法である。

撃退の方法はない。できるのは三つだけである。紙が白くなる速さを測ること。名を書かれた人のそばにいること。用語表から直撃の欄を消してもらうこと。三つ目は効かなかった。紙から消しても、住民は口でそう言い続けた。言葉は紙より遅く消える。

区に一人だけ、直撃を正しい意味で使う人がいた。合併の前からこの土地にいた老人である。避けられる直撃もある、と彼はわたしに言った。言ったとおり、彼が前を通るとき紙は白くならなかった。だが彼が椅子の男を連れ出そうとして板に手をついたとき、手はそのまま板を通り抜けた。正しく知っている人には、この板が無い。無いものには触れられない。だから助けにも行けない。

八月の終わりまでに、三十七区から十一世帯が出て行ったと聞いた。話者が減れば、語は薄れる。四枚目の紙も白いまま止まった。止まっただけで、消えてはいない。夜、看板の裏で音がする。紙をめくる音である。誰もいない場所で、めくる音だけが続いている。

早瀬の予測では、世帯が二十を切れば白い紙は止まるという。止まるのであって、消えるのではない。書かれた名がどこへ行くのかは分かっていない。班長の女性は、夫の名を毎朝呼び続けている。返事が無い分だけ、その声は短くなっている。

帰り道、入り江の岸にろうそくが一本ともっていた。前に通ったときには無かった。

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題材の着想: ウィキペディアの記事「ティロス (ギリシャ)」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

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