インスタントと、無くなった途中

インスタントと、無くなった途中

語現体鴇江市インスタント記録

インスタントコーヒーで大丈夫ですか、と早瀬が言った。八月十一日の午前九時半だった。わたしは、大丈夫ですと答えた。早瀬は瓶の蓋を開け、湯を注ぎ、こちらへ寄こした。全部で八秒だった。数えたのはわたしである。

今日はインスタントの日らしいですよ、と早瀬が続けた。タッタ五秒で、という文句が昔あったそうです。五秒。早瀬はその数字が気に入ったようだった。数字にすると怖くない、というのがこの人の癖である。

インスタントという語は、もともと溶けるという話である。粉が湯に溶ける。それだけの意味だった。時間の話ではない。だが誰も溶けるほうを言わない。みんな、すぐ、と言う。すぐできる、すぐ終わる、すぐ。

溶けるという意味だと分かる人はいる。分かっていても、口に出すときは、すぐ、と言う。言い方のほうが先に決まっていて、意味はあとから付いてくる。付いてこないこともある。付いてこなかったぶんが、どこかに溜まる。

鴇江市では今週、その言い方が異様に増えた。増えたことは早瀬の集計で分かっている。分かっているだけである。数が分かっても、何が起きるかは分からない。第四課はいつもそこで止まる。

受理は今朝の八時である。記録簿にはT-20260811-01とある。灯番号の日付と受理の日付が合ったのは、この夏で三度目だった。三度目と書いてから、一度目と二度目を数え直した。合っていた。

現場は末広商店街の乾物屋だった。店主は七十二歳で、四十年その場所にいる。豆を煎る店ではない。乾物屋である。だが今週から、店の前に人が並ぶようになった。

並ぶ理由を店主は説明できなかった。並んでいる人も説明できなかった。ただ、ここは早いから、と全員が言った。何が早いのかは誰も言わなかった。早いという言葉だけが揃っていた。

乾物屋の店先には、干し椎茸と煮干しと、貼り紙が一枚あった。貼り紙には値段しか書いていない。早いとはどこにも書いていない。書いていないものは、書いていない。だが並んだ十一人は、ここは早いから、と同じ言い方をした。

わたしが立ったのは列の最後尾である。前に十一人いた。列は動かなかった。動かないのに、前の人が一人ずつ減っていった。歩いて出ていくのではない。ある瞬間に、その人はもう買い終わった顔で店の外にいる。

わたしは前の人の背中を見ていた。灰色のシャツだった。見ていたはずである。次に目を上げたとき、灰色のシャツは店の外にいて、袋を提げていた。わたしの前は別の人になっていた。あいだを見た記憶がない。見ていたのに、ない。

途中がない。並んだ人には、並んでいた時間の記憶がない。買ったものは手にある。代金は財布から減っている。それだけが残って、あいだの十分ほどがどこにもない。

何と呼ばれたいですか、とわたしは列に向かって尋ねた。返事はなかった。列は返事をする形を持っていなかった。持っていないものに尋ねるのが、わたしの仕事である。答えは記録しない。

早瀬が統計を出した。八月一日から十日までで、市内での「すぐ」「一瞬」「あっという間」の使用が例年の四倍に達している。うち八割が、時間の短さを褒める文脈だった。同じ像で揃った、と早瀬は言った。言い方は落ち着いていた。

乾物屋の店主に、インスタントは溶けるという意味ですよ、と説明したのは白河である。新人らしい親切さだった。正確でもあった。溶ける、である。速いではない。

説明した白河が、その日のうちに戻らなくなった。庁舎に着いた記録はある。廊下を歩いた記録はない。席に座っていた。座るまでの二十分が、白河の中にない。本人は、着いたら座っていました、と言った。困った顔ではなかった。困る場面である。

白河は正しいことを言っただけである。店主のためを思って言った。この街では、正しさは親切の形をして出てくる。出てきたところから順に抜かれる。悪意はどこにもない。加害者は全員であり、誰でもない。

正しく知っていることは、像の側では何の役にも立たない。むしろ、正しさを口に出した者から先に、途中を抜かれていく。抜かれた本人が、抜かれたことを損だと思わないのがいちばん悪い。

桐生は窓の外を見たまま、報告書の余白を指で押さえていた。押さえただけで何も言わない。この人が黙るのは、言えば像になると知っているからである。黙っていられることが、この課で唯一できる仕事だと思っている節がある。

桐生は報告書を読み、抑止は不可能と書いた。書いてから、言及が減れば戻るという一文を消した。予測を書くと、予測のほうが像になる。この人はそれを知っている。だから黙る。

夕方、わたしは乾物屋の前をもう一度通った。列は短くなっていた。四人だった。四人とも、まだ何も買っていない顔で立っていた。買い終わった顔になるまでを、わたしは最後まで見なかった。見れば数えてしまう。

庁舎へ戻る道で、信号を待った。青になるまで四十秒あった。四十秒ぶん、足は止まっていた。止まっていたことを覚えている。覚えていられたので、今日はまだこちら側にいる。

帰りに早瀬がもう一杯淹れてくれた。今度は数えなかった。数えなかったので、何秒だったか分からない。分からないままにしておいた。

記録簿には、途中を失った者を三名と書いた。白河と、乾物屋の店主と、名前を言わなかった女性である。三名と書いてから、今日わたしが数えた回数を思い出した。八秒、十一人、四十秒、四人。数えたものは全部残っている。数えなかったものだけが、無い。

庁舎の裏口の鍵は、去年から少し固い。回すときに一度手前に引くと入る。誰も直そうとしない。

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