中秋の名月と、三回目の十九時四十分
「お団子、三本ですね。四百五十円です」
岬の展望広場に、屋台の声が通った。九月二十五日、十九時四十分。受け取ったレシートには、日付と時刻が薄く印字されている。わたしはそれを手帳に挟んだ。
鴇江市の最北端にある鷺ノ岬では、毎年この夜に観月会が開かれる。沖には小さな無人島が一つ見える。岩と松だけの島で、灯りは一つもない。
「今夜は満月だからね。まんまるだよ」
隣のベンチの女性が、孫にそう話していた。同じ言葉を、わたしはこの一時間で何十回も聞いた。配られたうちわにも「まんまるの名月」と刷ってある。広場の端では、言祝会の人たちが「お迎えの月」と書いたビラを配っていた。意味を与えれば怖くない、と彼らは考えている。
主催の八重樫さんだけが、首を振っていた。元は中学校の理科の先生だという。
「中秋の名月は、暦の十五日の月のことです。満月とは限らない。今年の満月は明後日ですよ」
正しい説明だった。でも、誰も聞いていなかった。
二十時を過ぎたころ、無人島の上に、もう一つ月が出た。本物より低く、本物より白い。そして、欠けがまったくない。見上げた人たちが、声をそろえて言った。「ほら、まんまる」
次に気づいたとき、わたしは屋台の前に立っていた。
「お団子、三本ですね。四百五十円です」
十九時四十分。手帳には、さっきのレシートが挟まったままだった。新しい一枚と並べると、印字はまったく同じだった。違うのは、二枚あることだけだ。周りの誰も、一回目を覚えていないようだった。
二回目の広場では、言葉が少しずれていた。隣の女性は孫に「今夜はまんまるだから」と言った。満月という語が抜けている。うちわの文字は変わっていない。変わったのは、人の口のほうだ。
八重樫さんが、同じ説明を始めた。
「中秋の名月は、暦の十五日の……満月とは、限らない。今年の満月は」
そこで止まった。口は動くのに、次の語が出てこない。明後日、と言えないのだ。彼は困った顔で指を二本立てた。
わたしは手帳に書き出してみた。この夜の仕組みは、恐らく二つに分けられる。
説明のつく側はこうだ。集まった人たちは、名月は欠けのない満月であるべきだ、という像を共有していた。でも本物の月は、わずかに欠けている。だから白い月が代わりに昇る。そして夜がまだ満ちていないと見ると、夜ごと巻き戻す。欠けを埋める材料は、人の口から持っていく。最初に消えるのは、欠け、まだ、明後日のように、足りないことを言う言葉だ。
つまり、正しい暦を知っている人ほど、奪われる言葉が多い。八重樫さんは、この広場でいちばん正確な人だった。だから、いちばん先に削られていた。
三回目の声は、半分しか出なかった。
「お団子、……です」
数を言う言葉が、もう足りなかった。広場は静かだった。誰も満月と言わない。言えないのだ。みんな空を指さして、「まる」とだけ言った。
白い月は、前より岬に近かった。無人島の沿岸部が、その光で骨のように白く浮いていた。表面がかすかに波打っていて、人の口の形をしたへこみがいくつも並んでいる。潮の匂いに混じって、体温より少し高い風が頬に当たった。
八重樫さんはベンチに座っていた。口が丸く開いたまま、閉じなくなっていた。舌は動いているのに、出るのは息の音だけだ。彼は身ぶりで手帳を借りると、震える字で書いた。「あさっ」。そこで鉛筆が止まった。字まで持っていかれたのだと思う。
わたしは白い月に向かって、声をかけた。何と呼ばれたいですか。答えはなかった。代わりに、手帳の頁が風でめくれた。一回目に書いた「明後日」の三文字が、白く抜けていた。わたしの口の中で、まんまる、という音が形になりかけた。わたしは唇を噛んで、それを飲みこんだ。
わたしにできたのは、記録することだけだった。三枚のレシートを並べて写真に撮り、八重樫さんの書いた字を、残っている分だけ写した。
気づくと、朝だった。岬のベンチで、わたしは手帳を抱えていた。日付は二十六日に進んでいた。受理票の日付欄に、わたしは二十四日と書いていた。書き直して、灯番号をT-20260925-01とした。
八重樫さんは、同じベンチで見つかった。口は丸く開いたままだった。病院で目を覚ましたあとも、口は閉じない。彼の携帯電話の予定表は、二十五日から先へ進まないという。家族が話しかけると、彼は窓の外を指さして、息だけで笑うそうだ。
二十六日の昼には、名月という語を使う人はもういなかった。白い月も昇らなかった。ただ、無人島の上の空には、夜になると小さな丸い曇りが残る。明後日、本物の月が満ちる。それで満ち待ちが足りるのか、次の十五夜を待つのかは分からない。
わたしの説明は、ここまでなら筋が通る。けれど、巻き戻された夜のレシートが、なぜ三枚とも朝まで残ったのか。なぜわたしだけが三回分を覚えているのか。それを言う言葉を、わたしはまだ持っていない。あるいは、持っていたのに、あの夜に一つ渡したのかもしれない。
駅前に先週できたパン屋は、今朝も看板にまだ名前がない。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「シャルコー島」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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