月末までに、繰り越されるもの

月末までに、繰り越されるもの

語現鴇江市月末黙の夏

市場の裏の戸を開けると、古い紙の匂いがした。朝から暑い。蝉が鳴いていた。早瀬から数字が回ってきたのは、その前だ。月末という語の使用が、七月に入ってから毎週増えている。増え方は、月の終わりに向かって急になる。閾に近い、と早瀬は言った。声はいつもどおり平らだった。灯番号を切って、受理にした。わたしは手帳を開いた。最後に空行を一行入れた。いつもそうしている。

七月の鴇江市には黙が出ている。語を減らす行政の処分だ。街の看板から、いくつもの語が消えた。それでも月末は消えなかった。官報の告示は読んだ。禁じる語の一覧に、聞いたことのない語が一つ混じっていた。読み方がわからなかった。わたしはその行を書き写した。書き写しただけで、あとは何もしなかった。

聞き取りは末広商店街の裏でやった。八人に会った。八人とも同じことを言った。月末までに終わらせないと、持っていかれる。何にですかと聞いた。誰も答えなかった。答えないのに、全員が同じ顔をした。持っていかれる、というのは比喩ではないらしい。比喩ではないと信じている人が、八人いた。像を作るには、それで足りる。

言い方はすこしずつ違った。青果店の主人は、月末は帳面が重くなると言った。学生は、月末までにやらないと消えると言った。消えるのは自分か課題かと聞いた。学生は少し考えて、両方ですと答えた。銭湯の番台の人は、月末は数が合わなくなる日だと言った。合わないのは数え間違いですかと聞いた。番台の人は首を振った。数え間違いなら、あとで合う。

羽鳥さんという経理の人がいた。四十くらいの女の人だ。月末になると、机の上に紙が積まれる。積まれた紙を見て、羽鳥さんは言った。これ、まだ終わってない。言ったのは三十日の昼だ。わたしはその言葉を書き留めた。書き留めた直後に、外の蝉が鳴きやんだ。それだけのことだった。

繰越が出たのは、その日の夜だった。倉庫のいちばん奥にいた。人の背丈ほどある紙の束だった。束は立っていた。誰も支えていないのに、倒れなかった。紙は湿っていて、風もないのにめくれる音がした。めくれる音は、下のほうから順に上がってくる。近づくと、人肌より少し温かい。匂いは古い糊の匂いだ。埃の匂いではない。閉じた戸棚の匂いでもない。糊の匂いだった。

繰越は、終わっていないものの前で止まる。止まって、ゴム印を押すような音を一度だけ出す。ごむ、と乾いた音がする。それで、そのものは翌月へ移る。移ったものがどこにあるのかは、誰も知らない。倉庫の中を探しても無い。翌月の帳面にも無い。数の上でだけ、翌月にある。

羽鳥さんの前でも、繰越は止まった。音が一度した。羽鳥さんは口を開けた。声は出なかった。口の形は、あ、だった。もう一度開けた。やはり出なかった。わたしはそれを見ていた。八月になっても、羽鳥さんの声は戻らなかった。姿はある。手も動く。字も書ける。字はきれいなままだ。声だけが翌月にある。その翌月になっても、まだ翌月にある。

翌日、羽鳥さんの職場へ行った。同僚の人たちは、羽鳥さんが風邪をひいたと思っていた。誰も困っていなかった。困っていないので、誰も何も言わなかった。羽鳥さんは紙に書いて用件を伝えていた。それで仕事は回っていた。回っているうちに、書くのが普通になった。桐生課長は報告書を読んで、うなずいた。そして、わたしに席を外させた。理由は言わなかった。わたしも聞かなかった。聞かないことにした、というほどの決意もなかった。廊下は暑かった。

早瀬は倉庫に来なかった。月末はただの区切りだ、と早瀬は言う。締め日は会社が決めた約束にすぎない。暦に力はない。早瀬の言うことは正しい。正しいので、繰越は早瀬の前では止まらなかった。止まらずに、早瀬の担当分をまとめて運んでいった。早瀬は数字を数え直した。数は合っていた。合っているのに、中身がなかった。早瀬はもう一度数えた。

わたしは繰越に尋ねた。何と呼ばれたいですか。繰越は音を出さなかった。紙が一枚だけめくれた。それを答えとは書かなかった。わたしは退治の方法を持っていない。局にもない。局にできるのは隠すことだけで、防ぐことはできない。できるのは、そばにいて、書くことだけだ。わたしは書いた。

書いているあいだ、繰越はわたしの手帳の前で一度止まった。手帳には終わっていない行がある。最後の空行だ。繰越はその行の前で止まった。音は、しなかった。しなかったが、次に開いたとき、空行には八月の日付が先に書かれていた。わたしの字だった。書いた覚えはない。わたしは日付の上に線を引いた。線を引いてから、手帳を閉じた。

八月に入ると、月末という語を使う人は減った。減ると、繰越は薄くなった。紙の束は日ごとに低くなった。最後には、めくれる音もしなくなった。それでも消えてはいない。倉庫の奥の床に、四角い跡が残っている。紙を長く置いた跡だ。そこだけ、いつも少し温かい。月の終わりが近づくと、跡の上で一度だけ音がするという。音がしたとき、そばにいた人の何が翌月へ行くのかは、聞いていない。

帰り道、誰も通らない路地の街灯が、一つ増えていた。数えたのは、そのときだけだ。

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