八時八分と、開いたままの一分

八時八分と、開いたままの一分

語現体鴇江市時刻末広がり

手が閉じないんです、と女は言った。窓口の高さは腰までで、女はそこに両手を置いていた。置いていた、というより、置くしかない形だった。指は十本とも伸びていた。伸ばしているのではない。曲げようとしても、途中で戻る。

わたしは届出書の様式第四号を出した。発生日欄と申告日欄に同じ日付を書いた。同じ日になる場合は備考に理由を書く決まりがある。発生日が本日であるため、と書いた。記録簿にはT-20260808-01と記した。

女は三十代で、職業欄には事務とあった。事象の内容欄には一行だけ書かれていた。閉じられません、とある。何がですか、と訊いた。女は少し考えて、全部です、と答えた。

順に確かめた。手は開いたまま止まる。持つことはできる。指を回して物を抱えれば運べる。ただし握れない。財布の口が閉まらない。鞄の留め具が留まらない。家の玄関は、押せば開き、引いても閉まらない。閉めようとすると、あと数センチのところで戻る。

まぶたはどうですか、と訊いた。女は答える前に一度、目を伏せた。伏せて、途中で戻った。それが答えだった。

八時八分に何をしていましたか、と訊いた。女は、外を歩いていました、と答えた。時計は見ましたか、と重ねると、見ました、と言った。見て、何を思いましたか。女は、今日は開く日だと思いました、と答えた。

八時八分は、時計が示す位置にすぎない。長針と短針がその場所に来ただけである。数字が三つ揃っても、時刻の中身は変わらない。八が末広がりと呼ばれるのは、漢数字の形が下へ向かって開いているからである。形の話であって、何かが開く話ではない。

ところが人は、この二つを同じ語で言う。八は開く、と言う。字が開いているという意味と、運が開くという意味と、物が開くという意味が、開くという一語の中で区別されない。区別されないまま七日間使われれば、像はいちばん動作らしいほうへ寄る。開くという動作には、対になる動作がある。閉じるほうである。像が片方だけを持ったとき、もう片方は行き場を失う。

現地は市の北、末広町の三丁目だった。届出人の勤め先である。事務所は二階で、階段の踊り場に窓があった。窓は開いていた。閉めようとした跡があった。桟に指の痕が四本、上から下へ引かれている。痕は途中で止まっていた。

わたしは事務所の中を歩いた。書類の綴じ具が、どれも開いていた。閉じられていないのではない。閉じた形跡のあるものが、開いた状態で止まっている。金具は曲がっていない。壊れているものは一つもなかった。

奥に立ったとき、空気の温度が下がった。温度計を当てると、周囲より一・一度低い。境はあいまいだが、位置はほぼ一定だった。踏み越えると、自分の手のひらが少し軽くなった。指を曲げてみた。曲がった。曲がってから、戻るまでに半拍あった。半拍だけ、戻ることを選べた気がした。気がしただけである。

境の内側で、わたしは規定どおり尋ねた。何と呼ばれたいですか。返事はなかった。返事の代わりに、開いていた窓が一度だけ動いた。閉じる方向ではなかった。もう少し開いた。

白河が、直せますか、と訊いた。わたしは、直すという語がこれに当てはまりません、と答えた。壊れていないものは直せない。開いていることは、故障ではない。

できることは三つだけである。像を薄めること。像の届かない場所へ人を移すこと。そして、記録すること。三つ目は本人のためにはならない。

薄めるための手続きは、様式第九号の申請から始まる。申請から決裁まで、印は四つ要る。四つ目の印が押されるのは早くて六日後である。そのころには八月八日は過ぎている。過ぎたあとに薄めても、開いたものは閉じない。制度が間違っているのではない。名を扱う手続きが、名の速さに追いついていないだけである。

帰り際、白河が階段の下で足を止めた。あの人、寝られるんですか、と訊いた。まぶたが閉じないなら、と言いかけて、やめた。わたしは、下りはします、と答えた。下りて、戻ります。それを一晩くり返します。

白河は、それは眠れているんですか、と訊いた。わたしは答えなかった。答えると、その状態に名前が付く。名前が付いたものは、その名前のとおりになる。この件については、まだ名前がない。ないままにしておく理由が、この街には十分にある。

自分の手を見た。指は曲がる。曲げて、戻して、もう一度曲げた。三度とも曲がった。三度目だけ、戻すのに力が要った。力が要ったこと自体は、記録に書く欄がない。

報告書を閉じた。閉じられた。最後の一行のあとに、いつもの空行を一行入れた。長さは前の記録と同じにした。同じにする理由は、規定にはない。

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