箸と、置き場のないもの
末広町三丁目の定食屋で、丼の縁に箸が一膳、横向きに渡されていた。閉店後である。店主は片付けたと言った。片付けたのに、渡されていた。あなたは、この時点でおかしいと思うだろうか。わたしは思わなかった。この仕事では、そういう報告のほうが多い。
受理は八月四日十九時二十分。様式第七号による。届出者は店主で、氏名と住所は届出書に記載がある。手続きの話を先にする。届出書には受理印を押す欄が二つある。一つは受理した者、もう一つは確認した者の欄である。第四課では確認者を置かない運用が長く続いており、下の欄は空のままになる。空のままの書類が、今日までに何万枚あるのか、わたしは数えたことがない。
現場に着いたのは十九時五十分だった。商店街の東側は日が落ちるのが早い。この一帯には別の記録でも何度か来ている。無関係な語現体の背景として、同じ通りが繰り返し出てくる。
丼は空だった。洗った後だという。箸はその縁に、きれいに水平に渡されていた。落ちる気配がない。指で押した。動かない。押し返してもこない。ただ、そこにある。
店主に、いつからかと尋ねた。夕方の放送のあとだと言う。商店街のスピーカーが、今日は箸の日だと流したらしい。正しい持ち方を見直しましょう、という内容だった。市の広報にも同じ日に同じ話が載った。
その放送のあと、客が箸の話をした。渡し箸はいけない、立て箸はもっといけない、あれは葬式の作法だから。誰かがそう言い、別の誰かがうなずいた。店主も一緒にうなずいたと言った。うなずいた回数までは覚えていないと言った。
覗いてみてほしい。ここに、この街の仕組みがそのまま出ている。誰も嘘をついていない。誰も悪くない。ただ、同じ説明が短い時間に何度も口に出されただけである。
厨房の流し台を見た。洗い終わった皿が三枚、水切りかごの上にあった。上にある、という言い方は正しくない。宙に浮いてはいない。かごに触れてもいる。それでも、置かれていなかった。
説明が難しいので、店主にやってもらった。皿を一枚持ち上げ、かごに戻す。手を離す。皿は動かない。落ちもしない。しかし店主は手を引かない。引けない、と言った。渡している途中だから、と言った。
誰に渡しているのかと聞いた。店主は答えなかった。答えられなかったのだと思う。渡す相手は、像の中に含まれていない。含まれていないものは、実体を持たない。
同僚の白河を呼んだ。白河は現場に着くと、まず床を見た。わたしがいつも床から見る癖を、そのまま真似している。わたしは訂正しない。訂正すると、訂正した形で定着してしまう。
白河は皿に手を伸ばしかけて、途中で止めた。触ると自分も渡す側になるのではないか、と言った。判断としては正しい。ただし、その判断が正しいことを、わたしは白河に言わなかった。
手続きの話に戻る。この種の事象では、まず周辺の言及数を統計官に出してもらう。早瀬は数字にすれば怖くないと信じている。数字にした結果、閾を超えていることが分かるだけなのだが、それでも彼は数える。数え終わるまでのあいだ、彼は落ち着いている。
二十時四十分、通りの向かいから人が来た。四代続く箸屋の主人だった。八十を過ぎている。話を聞いて出てきたのだという。
主人は、渡し箸がいけない理由には諸説あると言った。もう食べ終わったという合図になるから、という説明もある。地域によって禁じ方も違う。骨上げの作法と結びつける言い方は後から広まったもので、全国で同じではない。主人は、それを一つずつ順番に言った。
つまり主人は、正しく知っていた。この街で、この日、いちばん正確に知っている人だった。
そして、いちばん無力だった。
主人が丼に近づくと、渡された箸が一度だけ止まった。止まった、という言い方はおかしい。もともと動いていない。それでも、止まったとしか書きようがない。その瞬間、主人が持っていた杖が、主人の手から離れずに、渡される側へ移った。
主人は座り込んだ。杖を握ったままである。握ったまま、渡している。わたしは主人の横にしゃがんだ。何と呼ばれたいですかと尋ねた。主人は自分の名前を言った。わたしはそれを記録しなかった。
報告書には、収束の見込みを書く欄がある。わたしはいつも同じことを書く。言及が減れば像が薄れ、実体は残滓になる。残滓は土地に沈む。沈んだものは消えない。
消えないものを、この街は何十年ぶんも下に敷いている。その上で今日も店が開き、放送が流れ、正しい持ち方を見直しましょうと言う。
二十二時、言及数の伸びが止まったと早瀬から連絡があった。翌朝には残滓化するだろうという見立てだった。丼の箸は明日には消える。皿は置かれるようになる。杖は、たぶん戻らない。
店主に、明日は放送を止めてもらえるか聞いた。店主は、自分の一存では決められないと言った。それはそうである。誰の一存でもない。誰の一存でもないから、止まらない。
帰り際、あなたに一つだけ言っておく。この記録を読んでいるあなたは、いま「渡し箸はいけない」という説明を一度読んだ。読んだ回数は、言及の回数に入る。
帰路、暗渠の格子から水の音がした。前の月の点検表では、この区間は乾いていることになっている。音は止まらない。止まらないまま、暗い。
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