国債買い入れと、帳簿にだけ残るもの

国債買い入れと、帳簿にだけ残るもの

語現体鴇江市国債買い入れ看取り

国債買い入れ、と子どもが言った。末広町の路地の入口だった。朝の八時を回っていた。子どもは意味を知らなかった。知らないまま、もう一度言った。となりの子どもも言った。二人は笑った。,語は三日前から街にあった。誰かの投稿が始まりで、それを別の誰かが引き、商店街の放送が読み上げた。読み上げた人も意味を知らなかった。市内での言及は、三日で四千件を超えた。数が揃うだけでは足りない。像が揃うと閾に近づく。灯番号 T-20260805-01 として受理したのは、八月五日の午前八時二十分である。,わたしは聞き取りに出た。まず子どもに聞いた。国債買い入れとはどういう意味か。子どもは、買って入れることだと答えた。入れたらどうなるか。戻ってこない、と子どもは言った。次に商店街の放送を読み上げた人に聞いた。同じ答えだった。それから通りがかりの会社員に聞いた。やはり、戻ってこないやつでしょう、と言った。,三人とも、入れる、と言った。三人とも、戻らない、と言った。,国債買い入れは、そういう意味ではない。市場に出ている債券を買って手元に置くだけの操作である。買われたものは無くならない。持ち主が変わるだけだ。もともとは帳簿の上の言葉である。帳簿を見ない街で、帳簿の言葉が消失の名前として使われていた。,路地の一角に、縁のはっきりした空白があった。空白、という言い方しかできない。見た目には何もない。手を入れると、手はそのまま入る。手だけなら戻ってくる。持っていたものは戻らない。,早瀬が測りに来た。統計官の早瀬は、数にすれば怖くないと信じている。彼は空白の縁に十円玉を落とした。音がしなかった。落ちた先に何も無かった。早瀬は手帳に書いた。第一回、十円、消失。それから顔を上げて、消失ではないですね、と言った。わたしは、なぜ、と聞いた。早瀬は手帳を見せた。手帳には十円玉のことが書いてある。写真も撮ってあった。写真には十円玉が写っていた。,残っていないのは物だけだった。,九時十分。路地の奥から、女が出てきた。近所の惣菜屋の人だった。両手を前に出していた。何かを持つ形だった。手の中には何もない。女はその形のまま、店の方へ歩いていった。わたしは声をかけた。何を持っていますか。女は、釣り銭の箱、と答えた。わたしは、手の中を見てください、と言った。女は見た。それから、ありますよ、と言った。,女には見えていた。わたしには見えなかった。,白河が資料を持ってきた。正しい意味を印刷した紙だった。配りますか、と白河は言った。わたしは、まだ、と答えた。白河は紙を鞄に戻した。それから、まだ、とだけ小さく言った。わたしの言い方だった。訂正はしなかった。,九時四十分。早瀬が空白の前に立っていた。手を伸ばしていた。指先が縁の内側に入っていた。わたしは名前を呼んだ。早瀬は振り返らずに、十円玉を、と言った。彼は正しい意味を知っている。買われたものは無くならない、と知っている。知っているから、そこに在ると信じて手を伸ばす。,知らない人は、戻らないものとして諦める。諦めた人は手を引く。,わたしは早瀬の腕を引いた。腕は戻ってきた。指も戻ってきた。何も掴んでいなかった。早瀬は手帳を開き、第一回、十円、と書いた行を長く見ていた。それから、記録が正しいので困りますね、と言った。,わたしは空白に向かって尋ねた。あなたは何と呼ばれたいですか。返事はなかった。この質問に返事があったことは一度もない。それでも尋ねる。記録の様式にそう書いてある。様式を作った人がなぜそう決めたのかは、わたしは知らない。,空白は動かない。閉じる方法は分からない。埋める方法も分からない。分かったことが一つだけある。正しい意味を知っている者ほど、長く手を伸ばし続ける、ということだった。,わたしは白河を路地から出した。紙は配らないままにした。配れば、読んだ者から手を伸ばす。読まなければ、戻らないものとして通り過ぎる。どちらが正しいのかは、わたしには決められない。決められないことを、決められないと記録に書いた。,翌日、言及は千件を割った。空白の縁はぼやけ、路地の敷石に薄く沈んだ。惣菜屋の女は、釣り銭の箱を持たないまま店に立っていた。困っている様子はなかった。帳簿の上では、箱はまだそこにある。,局の帰り道、桐生が自販機の前で立ち止まっていた。釣り銭口に指を入れて、何も取らずに戻していた。わたしは何も聞かなかった。桐生も何も言わなかった。,末広町の郵便受けには、宛名のない葉書が今月に入って三通届いている。差出人の欄はどれも空白で、消印の局名だけが違う。

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