確信歩きと、曲がらなかった角

確信歩きと、曲がらなかった角

語現体鴇江市確信歩き記録

八月二十日。灯 T-20260820-01。受理は午前七時四十分。第四課、聞き手、七尾ことは。

統計官の早瀬さんが数字を持ってきた。「確信歩き」という言い方の市内での使用が、七月の終わりから十九日間で十一倍になったという。数字は紙一枚。早瀬さんはその紙を机に置くと、こちらを見ずに出ていった。数字にすれば怖くない、といつも言う人である。わたしは紙を覗きこんだ。十一倍という字だけが、やけに濃く見えた。

聞き取りは末広町の外れ、坂の途中の平屋で行った。話者は粟津さん。七十二歳。若いころ、線路の保線をしていたという。湯呑みを両手で持って、こう話した。以下は録音のとおりに書く。わたしの相づちは省く。

「――ああ、確信歩道。あれね。いや、確信歩き、か。うちの孫がそう言うの。確信歩き。……わし、ずっと確信歩道だと思っとった。道のほうが確信しとる、いう意味だと。ええ、そう、道のほうが。あの、なんちゅうかね、迷わんで歩けば、その道が正しい道になる、いう。孫は笑うとったよ。じいちゃんそれ違う、迷っとっても迷っとらんふりして歩くことや、って。ふり、なんやね。ふり。……ふり、ねえ」

「そやけどね。この坂の下、角が三つあるでしょう。八月に入ってから、あそこを曲がる人が減った。減ったというか、曲がらんのよ。まっすぐ行く。みんな、まっすぐ。わし、毎朝そこを窓から見とるから分かる。前は郵便局のほうへ折れる人が半分おった。今は三人に一人もおらん。……いや、事故とかそういうんじゃない。誰も転ばん。誰も困っとらん顔しとる。困っとらん顔で、まっすぐ行くの」

「保線のころね、信号場ちゅうのがあってな。駅とはちがう。列車を待たせて、行き違いをさせるだけの場所。あそこはな、こっちの管轄とあっちの管轄の境界がぴたっと来とった。同じ線路なのに、キロ程で分かれとる。だから、境界の上で止まった列車は、どっちの持ちもんでもない時間がちょっとだけできる。ちょっとだけよ。……あの角がな、今そんな感じなんよ。曲がろうとした一瞬だけ、どっちの管轄でもなくなる。だから曲がれん。まっすぐは、誰かの管轄やから歩ける」

「孫がな、この前、まっすぐ行ったまま帰ってこん時間があった。三十分ほどな。帰ってきて、どこ行っとったんと聞いたら、まっすぐ行っとった、と言う。それだけ。怒っとらんし、泣いてもおらん。ただ、まっすぐ行っとった、と。……あんた、こういうの、どう書くの。記録に」

わたしは、そのまま書きます、と答えた。粟津さんは湯呑みを置いた。置いた音が、思ったより高かった。

帰りに、その角を歩いた。わたしは道を知っている。郵便局へ折れる角がどれかも知っている。だから迷いなく歩いた。迷いなく歩いた、というところが、あとで効いた。

角の手前で、右へ体を向けた。向けたはずだった。足はまっすぐ進んだ。もう一度やった。同じだった。三度目に、わざと立ち止まった。立ち止まれた。立ち止まれるのに、曲がれない。あなたも一度、自分の帰り道でやってみてほしい。曲がれることを、たしかめるだけでいい。

横をおばあさんが通った。地図を広げ、何度も顔を上げ、明らかに迷っていた。おばあさんはその角を、あっさり曲がった。曲がって、また戻ってきて、反対側へ曲がった。二回とも曲がれていた。わたしはそれを見ていた。見ていることしかできなかった。

つまりこうである。迷っている人は曲がれる。迷っていない人が曲がれない。像が「迷わず歩けば正しい道になる」の側で揃ったから、迷いのない歩きは、その道の正しさを保証する役をあてがわれた。役を持った者は、役の外へ出られない。道を知っている者ほど、迷わない。迷わない者ほど、曲がれない。

語現体には姿がなかった。角の三歩手前に、境界のようなものがあるだけだった。手をのばしても何も触れない。触れないのに、そこから先は自分の足が自分の管轄でなくなる。

わたしは角に座って、いつもの質問をした。何と呼ばれたいですか。返事はなかった。返事はいつもない。それでも尋ねる。答えを記録しないと決めているから、尋ねられる。

日が落ちるまで、そこにいた。八時十分、まっすぐ歩いてきた男の人が、角の手前でふいに立ち止まった。「あれ、ここ、どっちだったかな」と言った。そして曲がった。曲がれていた。迷った瞬間に、役が外れたのだと思う。

退治はしていない。撃退の方法も分からない。わたしにできたのは、曲がれなかった回数と、曲がれた人の様子を書くことだけだった。粟津さんのお孫さんのことは、名前を伏せて記録した。

九月に入れば、この言い方は使われなくなるだろう、と早瀬さんは書いている。使われなくなれば像は薄れる。薄れるだけである。消えはしない。角の三歩手前に、たぶん何かが沈む。次にこの坂を掘る人が、掘ったものを何と呼ぶのかは、まだ決まっていない。

報告書を閉じたあと、あなたに一つだけ書いておく。曲がれなかった日の帰り、わたしは遠回りをして帰った。遠回りには理由が要らなかった。

末広商店街の三番目の街灯が、昨夜から一つ増えている。誰も申請していない。

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題材の着想: ウィキペディアの記事「チェプツァ駅」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

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