敬老の日と、三度目の目盛り
九月二十一日の朝、わたしは旧い銀行の建物にいた。灯番号はT-20260921-01である。空はよく晴れていた。いや、訂正する。受理票の日付は九月二十日になっている。夜のうちに届いた通報を、朝の枠で受けたためである。日が跨いだ。それだけのことだと思っている。
基準点。
建物はもともと銀行として建てられた。戦後は長く派出所として使われた。いまは一階が喫茶店になっている。壁の修復が終わったのは去年の春である。通報したのは、その店で働く四十代の女性だった。店の奥に細長い金属の棒が立っている、と言った。
朝、女性はこう語った。
「七時に鍵を開けました。いつもどおりです。灯りを点けて、湯を沸かして、それから奥の物置の戸を開けました。そこに、銀色の棒が立っていたんです。床から天井まで、隙間なく。物置の天井は低いので、つっかえ棒みたいに見えました。触ってみました。冷たくはありません。人の肌より、ほんの少しだけ温かい。よく見ると、目盛りがありません。ただの棒です。わたしは掃除用具か何かが倒れてきたのだと思って、動かそうとしました。動きませんでした。それで、父を呼んだんです。父はこの建物のことをよく知っています。ここが派出所だった頃から、向かいに住んでいますから。父が物置に入って、棒の横に立ちました。そうしたら、どこからか声がして、八十一、と言いました。父の年です。父は笑って、当たっている、と言いました。わたしも笑いました。そのときは、それで終わりだと思っていました。それだけです」
わたしは相槌だけを打った。
測点一。八十一。
同じ日の九時十分。わたしは同じ物置に、同じ男性と入った。棒は動いていない。男性は棒の横に立った。声がした。七十九、と言った。
二度目である。値が二つ違う。わたしは受理票に両方を書いた。測量でも、同じ区間を二度測れば値は違う。違いを誤差と呼ぶ。ふつうは、その誤差が許せる幅に収まるかどうかを見る。だが年は長さではない。二年の差を誤差と呼んでよい理由が、わたしには見つからなかった。
男性は不安そうだった。自分の生年月日をはっきり言えた。免許証も出した。日付は合っていた。正しく知っているのに、値のほうが動く。この街では、それがいちばん危ない立ち方である。像を持っているのは本人ではない。数え直しましょう、と書いた人たちのほうである。
局の集計を見た。九月十四日から二十日までの七日間で、市内の「敬老の日」の使用が前年同期の九倍になっていた。祝う言葉より、数え直す言葉のほうが多かった。八割以上が同じ形をしていた。今年で何歳になったか、ちゃんと数え直しましょう。数え直せる、という言い方は、いまの値が仮だという絵を見せる。仮のものは書き換えてよい。読んだ人の像は、そこで揃った。
市の窓口で戸籍を扱っている人が、この物置に来たことがある。彼女は正しいことを言った。年齢は測るものではない。生まれた日から数えるもので、数え方は一つしかない。彼女はそう説明した。説明しているあいだ、棒は一度も動かなかった。彼女がいちばん正確で、いちばん何もできなかった。
測点一、三度目。
十一時四十分。男性がもう一度確かめたいと言った。わたしは止めた。止め方を知らなかったので、言葉で止めるしかなかった。男性は入った。棒の横に立った。棒がゆっくりと下がり、男性の頭の高さで止まった。声がした。七十四。
男性の背が縮んだわけではない。顔が変わったわけでもない。変わったのは声だった。低くなった。そして、七年ぶんが抜けた。修復が終わった去年の春のことを、男性は覚えていなかった。足場が組まれていたことも、壁の色が変わったことも、覚えていなかった。娘の名前は覚えていた。娘がいつ店に入ったかは、覚えていなかった。
三度目の値は戻らない。二度目までは揺れる。三度目で杭が打たれる。測量なら、それで区間が閉じる。閉じたものは、もう測り直さない。
わたしは名前を尋ねなかった。先に尋ねることが一つある。何と呼ばれたいですか。返事はなかった。記録もしない。これは毎回そうしている。
そのあと、棒はわたしの斜め後ろに立った。近い。背中に、人の肌より少しだけ温かいものが触れた。棒が下がり始めた。わたしの頭の高さで止まりかけた。声が、最初の一音だけ出た。わたしは物置を出た。受理票の日付が九月二十日のままだったのは、たぶん、そのせいではない。
九月の終わりにかけて、市内での使用は落ちた。祝日が過ぎたからである。棒は細くなった。天井までは届かなくなった。それでも消えてはいない。物置の隅に、薄い銀色の筋が一本、床から立っている。触ると、まだ少しだけ温かい。
男性は毎日、店に来る。娘は父に、去年の春の話をしないことにした。話しても埋まらないからである。埋まらないものを毎日確かめさせるのは、看取りではない。わたしは受理票に、抜けた年数だけを書いた。どこへ行ったのかは書けなかった。分からないので、そう書く。
(余白)
向かいの空き家の二階に、誰も点けていない灯りが一つある。修復の予定はない。まだ名前がない。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「旧三和銀行」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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