消えない花火と、名を待つ火
「ほら、まだ一発だけ、残っているでしょう」。貸しボートの老人が、川の真ん中を指さした。川開きの晩から、三日が過ぎた夕だった。空には、何もない。でも老人の指の先を、わたしはつい目で追った。追ってしまった時点で、もう半分は始まっている。
机に戻ると、言葉の見張りの紙が届いていた。灯番号は T-20260725-01。「消えない花火」という言葉が、川沿いの三つの町で同時に増えていた。使われるのは、決まって日が落ちてからだ。昼のあいだは、一度も跳ねない。夜だけ灯って、朝には消える言葉。それ自体が、花火のようだった。
聞き取りをすると、どの人も同じことを言った。「消えない花火は、空の光じゃない」。まだ帰っていない誰かが、一人ぶん、数えられずに残っている。その合図なのだと。そう話すとき、みんな川ではなく、自分の指を見ていた。数えそこなった指を、確かめるように折っていた。
誤解は、こうして揃った。足りない一つは、光の側にはない。数える側にある。同じ像を、川沿いの何百人もが持ってしまった。この街では、大勢が同じ像を持つと、それは形になる。
その晩、それは川面の上に立った。待火(まちび)。対岸の常夜灯より、ちょうど一つぶん高い場所。橙色の、まだ開ききる前の火だった。近づくと、川風がぬるい。体温より、少し高い風だ。濡れた灰の匂いがした。火は、細く音を立てていた。息を止めた人が、吐く直前に漏らすような音だった。
最初に足りなくなったのは、あの老人だった。人が川べりで頭数を数えると、老人のところで、いつも声が止まる。「一、二、三……」と数える口が、彼の前で必ず一つ飛ぶ。水面を見ると、みんなの影は映っているのに、老人の影だけが無い。本人は、すぐそこに立っている。立っているのに、誰も彼を「一」と数えられない。老人の声も、だんだん細くなっていた。話しているのに、数える段になると、耳に届かない。まるで、もう半分だけ、こちら側にいないようだった。
第四課の観測班が、機材で正しく測った。答えは「光は上がっていない」。低い雲に常夜灯が映り、川面の照り返しと重なっているだけ。若い技官は、露光を三度変えて、三度とも同じ値を読み上げた。彼は正しかった。でも、正しく数えられる人ほど、あの火に近い。いちばん正確に数える者が、いちばん先に、数えられる側へ回される。技官の正しさは、川風にまぎれて、すぐにほどけた。
わたしも、数えてみた。川べりに立つ人を、端から端まで。数え終えて、一つ足りない。もう一度数えた。やはり足りない。足りない一つが誰なのか、目で探した。探しているあいだに、待火が、すっと高さを下げた。わたしの目と、同じ高さまで。橙が、まっすぐこちらを向いた。そのとき背中で、桐生さんの声がした。「七尾さん、離れて。お茶を淹れてきてください」。振り返ると、桐生さんは川べりの帳面を、もう伏せていた。何が書かれていたのかは、見せてもらえなかった。
翌る晩、わたしは川縁に腰を下ろし、火に一つだけ尋ねた。「何と呼ばれたいですか」。返事は、あったのかもしれないし、なかったのかもしれない。火は答えるかわりに、また少しだけ高さを下げた。常夜灯と、同じ高さまで。それを見て、わたしは頁を開かなかった。この問いの答えは、記録しないことになっている。
その夜、細い雨が来た。雨は川面を撫でて、常夜灯の映りを崩した。待火の橙も、ゆっくり洗い落とした。言葉の使われ方も、落ちていった。誰も足りない一つを数えずに済む晩が来れば、その言葉を使う理由もなくなる。待火は薄れた。でも、消えたわけではない。その晩から、対岸の常夜灯が一つ、点かなくなった。なのに誰も、電球を替えようとしない。替えれば、数が合ってしまうからだ。暗い一つを、みんな暗いまま残した。残していることに、誰も気づいていなかった。
霧の上がった明け方、老人は船着き場の石に立っていた。じっと、川の真ん中を見ている。わたしが近づくと、老人は言った。「もう一度だけ、数え直させてください」。「まだ、一つ足りないんです」。わたしは老人の腕を取った。腕は、取れた。でも、引き戻せなかった。引き戻すというのは、彼の足りない一つを、こちらの数字で埋めることだ。それは、この課の仕事ではない。老人は、川へ下りていった。霧がその背を包んで、すぐに見えなくなった。数える声だけが、水の上を、しばらく漂っていた。それも、じきに止んだ。橙が、一つ分だけ明るくなった。埋まらなかった、とわたしは書いた。
報告書の終わりに、わたしは空白を一行残した。その空白に、まだ誰も使っていない言葉が一つ、混じった気がした。読み返すと、もう無かった。
橋を渡って帰るとき、消えた常夜灯の隣で、小さな灯が一つ点いていた。誰も見ていなかった。青みのある白い光だった。川の暗いところを、そこだけ、名前のように照らしていた。
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは関係ありません。
投稿は公開されます。個人情報や誹謗中傷は書かないでください。作品はフィクションです。