酷暑日と、あと一度

酷暑日と、あと一度

語現鴇江市酷暑日陽炎

蝉の声が、四つ辻のいちばん白いあたりで、ふっと途切れていた。まわりでは鳴いているのに、その一画だけ、音がない。惣菜屋の前で、女がわたしに言った。「今日は、酷暑日でしたね」。わたしは答えた。「実測は、三十八度台でした」。女は油の匂いのする手を前掛けで拭いて、静かに言い直した。「でも、わたしには酷暑日でしたよ」。

その夕方、机に灯番号 T-20260724-02 の紙が届いていた。「酷暑日」という言葉が、三日で二度、跳ねている。跳ねたのは、正午ではない。いつも、日が傾いてからだった。人が疲れて、その一日を諦める時刻に、その言葉は灯った。

聞き取りをすると、どの人も同じことを言った。「酷暑日は、温度計の値じゃない」。もう無理だ、と思ってしまった時刻のことだと。そう話すとき、みんな空ではなく、自分の手のひらを見ていた。限界の境目は、数字の側にはない。身体の側にある。同じ像を、街の何百人もが持ってしまった。

白陽(しろひ)が立ったのは、その四つ辻だった。舗装が、いちばん白く灼けた場所だ。陽炎の中に、輪郭のぼやけた人型。白いというより、色が抜けていた。目もない。影もない。ただ立って、背を向けている。近づいても、暑くならなかった。それが、恐ろしかった。まわりの空気は、確かに焼けている。なのに白陽の内側だけが、水の底のように冷たい。その静けさに立ち入ると、自分の手のひらの内側から、先に熱が上がってくる。外は暑いのに、内から灼ける。

第四課の技官が、計器で正しく測った。設置の高さも、日射のさえぎり方も、規定どおりだ。結果は、三十九度。もう一度測っても、三十九度。機種を替えても、三十九度。技官は、酷暑日の定義を暗誦できる人だった。四十度以上を、そう呼ぶのだと、汗の伝う頬で二度言った。二度言うあいだ、針は動かなかった。正しく知っている人の計器ほど、四十に、一度だけ届かない。

四十を指したのは、定義を知らない人の寒暖計だった。惣菜屋の女が持ってきた、目盛りの掠れた古いものだ。女はそれを白陽の足元に置いて、「ほらね」と言った。技官は、何も言わなかった。彼は正しかった。でも、その正しさは、この場では何の役にも立たなかった。

わたしも、白陽のそばに寄った。寄った瞬間、蝉の声が消えた。耳の中が、水を入れたように塞がる。手のひらが、内側から熱い。頭の隅で、勝手に声がした。「もう、無理だ」。わたしの声ではない。でも、わたしの中から聞こえた。手のひらの熱が、肘のほうへ這い上がってくる。あと少しで、その声を自分の口が言いそうになった。背中で、桐生さんの声がした。「七尾さん、下がって。お茶を淹れてきてください」。振り返ると、桐生さんは机の帳面を、もう伏せていた。何が書いてあったのかは、見せてもらえなかった。

わたしは白陽の前に腰を下ろし、一つだけ尋ねた。「何と呼ばれたいですか」。返事は、あったのかもしれないし、なかったのかもしれない。輪郭のない背中が、答えるかわりに、ほんの少しこちらへ傾いた。それだけを見て、わたしは頁を開かなかった。この問いの答えは、記録しないことになっている。

夕立が来たのは、翌日だった。雨が舗装を叩き、白く灼けた四つ辻から湯気が立った。街の色が、いっとき緑に戻る。言葉の使われ方も、落ちていった。誰も「もう無理だ」と言わずに済む日が来れば、その言葉を使う理由もなくなる。白陽は薄れた。でも、消えたわけではない。四つ辻の、いちばん白かったあたり。そこだけ、雨に濡れても乾いた色をしている。通る人はみな、わけもなく、その一枚を避けて歩く。避けていることに、誰も気がついていなかった。

取りこぼしたのは、惣菜屋の女だった。雨のあいだ、彼女は店を閉めて、商店街の屋上に上がっていた。わたしが駆け上がったとき、もう雨は上がっていた。西の空だけが割れて、赤い光が屋上の水たまりを燃やしている。女は、その真ん中に立っていた。汗を、かいていない。あれだけの西日なのに、頬が乾いている。近づくと、女の輪郭が、白陽と同じように、少しだけ色を失っていた。「まだですね」と女は言った。「まだ、あと一度、足りないんです」。わたしは彼女の腕を取った。腕は、取れた。でも、連れ戻せなかった。連れ戻すというのは、彼女が持ってしまった境目を、こちらの数字で上書きすることだ。それは、この課にはできない。日が落ちきるまで、隣で待った。日は、落ちた。あと一度は、来なかった。女は、屋上から下りてこなかった。翌朝、四つ辻の乾いた一画は、二人分の広さになっていた。来なかった、とわたしは書いた。

報告書の終わりに、わたしは空白を一行残した。

帰り道、閉めたはずの理髪店の軒下に、明かりが一つ点いていた。見ている者は、いなかった。うっすら青い、白い光だった。錆びた看板の字を、ずいぶん綺麗に読ませていた。

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