水の日と、数え終わらない数

水の日と、数え終わらない数

語現鴇江市水の日

八月一日は、水の日だという。鴇江市の広報にもそう出ていた。わたしは掲示板の前で、その五文字を三度読んだ。一度目は、ただの記念日として。二度目は、記録するべき語として。三度目は、もう遅いのだと知りながら。

水の日は、水を大切にする日である。国が定めた日で、この週は水の週間と呼ばれる。それが正しい意味だ。けれど町で書かれていたのは、そうではなかった。水の日は、水がきれいになる日。そう書いた人が、七月の終わりの三日間で二百を超えた、と早瀬は言った。数を出すと怖くなくなる、というのが彼の口癖だ。今回は、数を出しても怖かった。

誰も、自分で確かめてはいなかった。ある人は、祖母がそう言っていたと書いた。ある人は、子どものころに学校で習ったと書いた。ある人は、なんとなくそういう日だと思っていた、と書いた。一度目の投稿が二度目を呼び、二度目が三度目を呼ぶ。閾は、そうやって踏まれる。

末広町の水道局に、加瀬という人がいた。名は、ここでは仮のものにしておく。彼は水質の検査を二十年やっていた。水は流れても、勝手にはきれいにならない。濁りは沈むだけで、消えはしない。彼はそれを、誰よりも正確に知っていた。だから彼は、掲示板の書き込みに一つずつ返事を書いた。違います、と。違います、と。違います、と。三度書いても、誰も読まなかった。

わたしはそれを、彼の机で見せてもらった。返事は全部で百四十一件あった。数えたのは彼ではない。わたしが数えた。一度目に数えたときは百四十一件だった。

それが現れたのは、末広商店街の裏を流れる用水路だった。夕方で、水はまだ日の熱を持っていた。水面の上に、透きとおったものが立っていた。人の形ではない。柱の形でもない。ただ、そこだけ水が縦になっていた。触れると、指が濡れなかった。濡れないのに、水のにおいがした。近づいた人が、手を入れた。手は、出てきたときにきれいになっていた。汚れが落ちたのではない。汚れが、なかったことになっていた。町ではそれを澄み柱と呼ぶようになった。名をつけた人のことは、わからない。

加瀬は見に行った。彼は手を入れなかった。入れても意味がないと知っていたからだ。彼は集まった人に説明した。あれは水を浄化していない、汚れを消しているだけだ、消えた汚れはどこにも行っていない、と。二度説明した。三度目を言おうとしたとき、後ろから誰かが彼の背中を押した。悪気はなかったのだと思う。ただ、順番待ちの列が長かった。

澄み柱は、正しさを聞かない。人が信じたとおりにだけ動く。だから、正しく知っている彼のことばは何の役にも立たなかった。彼の腕が水面に入り、出てきたとき、腕はきれいになっていた。傷も、日焼けも、二十年ぶんの手荒れも、なかったことになっていた。彼は自分の腕を見て、それから、しばらく何も言わなかった。

あとで聞いた話を、そのまま書く。加瀬は次の日、机の前に座っていた。返事はもう書かなかった。書こうとすると、何が違うのかが思い出せなかったそうだ。同僚が試しに、彼の書いた百四十一件を読み上げた。彼は一度目にうなずき、二度目にうなずき、三度目に、それは自分が書いたものではないと言った。きれいになったのは腕だけではなかった。

わたしは彼の隣に座って、返事の件数をもう一度数えた。二度目に数えたときは、百四十件だった。一件がどこへ行ったのかは、わからない。消えた汚れと同じところにあるのだと思う。

帰るまえに、一つだけ尋ねた。あなたは、何と呼ばれたいですか。返事は、書かない。

水の週間が終わるころ、その言い方をする人は減っていった。澄み柱は日ごとに薄くなり、最後には、水面が縦になることもなくなった。けれど消えてはいない。用水路のその場所だけ、今も水が濁らないそうだ。濁らないのは、きれいだからではない。濁るという出来事が、そこでは起きないことになっているからだ。

帰り道、わたしは自分の手帳を開いて、この記録の行数を数えた。三度数えた。一度目と二度目は合った。三度目だけ、一行多かった。増えた一行が何であるかは、書かない。読み返すたびに、数が変わるからだ。

駅前で、子どもが打ち水をしていた。柄杓の水が地面に落ちて、すぐ乾いた。誰の家の前だったかは、聞かなかった。

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