最下位脱出と、出口のない底
やっと最下位脱出ですね、と白河が言った。八月六日、午後七時を回ったところだった。窓の外はまだ明るかった。わたしは、そうですね、とだけ答えた。答えながら、その語を今日何度目に聞いたかを考えた。四度目だった。
一度目は朝の窓口で、順番待ちの男が連れに言った。二度目は昼の定食屋で、三度目は帰りの駅の階段で聞いた。四度目がこの部屋である。四度とも、話し手は同じ形で言った。やっと最下位脱出、と。やっと、という語が四度とも先に来た。
順位は数である。並べたものの何番目かを指す、それだけの数である。場所ではない。場所でないものから出ることはできない。だが人はこの語を、底から這い上がることとして使う。脱出という語には、閉じ込められている場所と、そこに開いた出口が付いてくる。付いてきた像のほうが、語の中身より強い。
受理は午後三時だった。記録簿にはT-20260806-02とある。同じ日に二件目である。朝の一件は数の増える話だった。夕の一件は数の減る話ではない。数が変わったあとに何が残るか、という話である。
最初の報告は、市の球技場の管理人からだった。夏の大会の順位表を書き換えたあと、事務所へ戻る途中で足を取られたという。見ると、床に窪みがあった。管理人がそう言うので同僚が見に行くと、床は平らだった。管理人だけが、そこで足を取られ続けた。
同じ週に、似た届出が五件来た。順位が上がった学習塾の生徒。営業成績で最下位でなくなった社員。将棋の順位戦を勝った男。五件目は、届出書の順位の欄が空欄だった。何の順位かを書きたくない、と本人が言ったそうである。
白河が、下がらなければいいのではないですか、と言った。わたしは、そうですね、と答えた。答えてから、それは正しいが役に立たないと付け足した。人は順位を持たずに生きられない。順位があると知った瞬間に、人は自分の順位を数える。数えた後で、底は付いてくる。
現地は市の南、廃止された市営プールの跡だった。水は抜かれていた。抜かれているのに、底の色だけが濡れているように見えた。わたしは階段を降りた。段は九あった。降りきってから振り返ると、段は九のままだった。数が合ったことのほうが、この件では不気味だった。
プールの底に、それはいた。姿はない。ただ、そこに立つと、自分がいま何番目かが分かる。何の順位かは分からない。分からないまま、番号だけがはっきり分かる。わたしは規定どおり尋ねた。何と呼ばれたいですか、と。返事はなかった。返事の代わりに、足の裏の下に、わずかな沈みがあった。
上がってから、わたしは自分の足元を見た。何もなかった。他人には見えないのだから、当然である。それでも歩くたびに、一歩遅れて何かが付いてくる感触があった。振り返っても、床は平らだった。
撃退の方法はない。この種のものに、そもそも方法という語が当てはまらない。できるのは三つだけである。像を薄めること。像の届かない場所へ人を移すこと。そして、記録すること。三つ目は本人のためにはならない。次に同じ像が立ったとき、誰かの役に立つかもしれない、というだけである。
白河が、記録して何になるんですか、と訊いた。訊いたあとで、すみません、と付け足した。わたしは、何にもならないことのほうが多い、と答えた。答えてから、それでも書かないと次が同じところから始まる、と言い直した。言い直しても、答えになっていないことは分かっていた。
帰りに、白河が階段の途中で止まった。どうしました、と訊くと、いま何段目か分からなくなりました、と言った。数えていたわけではないという。数えていないのに分からなくなった、というのが正確な言い方だった。わたしは、数えないでください、と言った。言ってから、それも正しいが役に立たないと気づいた。
記録簿を閉じる前に、わたしは順位という欄を見た。この様式には、そんな欄はない。無い欄を見た、と書くわけにいかないので、わたしは何も書かなかった。書かなかったことだけが、今日の記録である。
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