設営完了と、足せない待合所
八月二十三日の朝、市の北の外れへ受理票を持って行った。届出人は町内会の設営担当で、七十代の男性である。わたしは灯番号にT-20260823-01と書いた。
聴取の記録は、彼の使っていた大学ノートの形式に合わせた。左の広い側に事実だけを書く。右の細い側に、事実にならなかったものを書く。彼はそれを板書と書き込みと呼んだ。前者は消していい。後者は消せない。そういう分け方だと言った。
板書。この場所には鉄道駅がある。三年前から休止中である。線路も駅舎も残っている。人だけが通らない。代わりに、駅前の広場に停留所が一つ置かれた。バスは一日に四本来る。屋根も壁も無い、棒が一本立っているだけの停留所だった。
書き込み。棒だけの停留所で、冬に一人、待っていて具合が悪くなった人が出た。それで町内会が待合所を建てることにした。
板書。八月十八日、待合所の骨組みが建った。屋根が載り、ベンチが二つ入った。同じ日の夕方、彼は町内会の集まりで、設営完了です、と報告した。
書き込み。彼は報告のとき、続きの日程も配っている。壁板がまだであること。時計をあとで付けること。時刻表の板が間に合わなかったこと。全部が紙に書いてあった。設営完了は、その紙の途中にある行のひとつだった。
彼は赤い線を引きながら説明した。工程表の赤線は、済んだところを消すための線である。消し跡が四つあった。五つ目を引こうとして、彼は手を止めた。
翌朝、時刻表の板が無かったんです、と彼は言った。前の日に自分で釘を打って付けました。板も釘も、自分で買いました。それが朝には、跡も無くて。釘の穴も無いんです。もう一度付けました。次の朝も同じでした。三度目に、隣の席の若い人に見ていてもらいました。彼は最初から板なんて無かったと言いました。わたしは自分の手で打ったのを覚えています。覚えているのは、わたしだけでした。
わたしは書き込みの側に、そのまま写した。
昼過ぎに待合所を見に行った。屋根はある。ベンチもある。壁は無い。ベンチの一つは板が一枚割れていて、そこだけ座れない。彼は割れた板を三度替えたと言った。三度とも翌朝には元の割れた板に戻っていた。直したことは、直した人にしか残らない。
姿は無い。設営完了と告げられた場所にだけ、それは居る。足したものは翌朝に無くなる。壊れたところは壊れたまま固定される。
何と呼ばれたいですか、と尋ねた。返事はなかった。返事の代わりに、割れたベンチの板が、割れ目の形をわずかに変えた。わたしは規定どおり、答えを記録しなかった。
夕方、早瀬の集計が届いた。市内での設営完了という語の使用が、五日間で例年の六倍を超えていた。盆明けの行事の設営が重なったためである。そのうちの七割で、話し手は工程の話をしていなかった。もう手を入れない、という意味で使っていた。設営は営みを設けること、完了はもうこれ以上は無いこと。その形で像が揃った。行事の終わる二十六日以降に言及が減れば、固定の進みは鈍るという予測が付いていた。予測であって、確認ではない。
彼は工程を正しく分かっている人だった。設営完了が終わりではないことを、四十年の仕事で知っている。だから彼は毎朝、続きをやりに来た。正しく分かっているので、続きが消えるのを誰よりはっきり見た。届出の欄には、工程が進まない、としか書けなかった。備品台帳の数は減っていない。買った記録も運んだ記録も残っている。無くなったのは物だけで、物があったという事実は無くならない。書く欄が無い届出は、局の手続きでは最も下に積まれる。何も分かっていない人なら、盗まれたと騒いだはずだ。騒げば誰かが来る。来ても無駄だが、少なくとも誰かが動く。彼だけが、誰も動かせなかった。
止める方法は無い。方法という語が、これには当てはまらない。できるのは三つである。固定の進みを測ること。足して消えたものを全部書き留めること。そして、消えると知っている人のそばに居ること。三つとも、終わらせるための行為ではない。
局にできることは隠すことだけである。この件も市民には知らせない。知らせれば人が語る。語れば像が濃くなる。濃くなれば、次に固定される場所が増える。防げないのに広げることはできる、という一点で、局は今日も無力だった。
帰りに、第四課の名簿を出す用があった。わたしの欄には入局年が入っていない。様式が変わったときの記載漏れだと桐生は言う。神保が集めたわたしの資料にも、写真が一枚も無いらしい。老松は前に一度だけ、わたしの手のひらに字を書いた。わたしはそれを読めなかった。読めなかったので、記録に残さなかった。
夜、待合所の前を通った。屋根の下に、明かりが一つ増えていた。前に通ったときには無かったと思う。思う、というだけである。数えていなかったので、記録には残さないことにした。今朝は町のどこかで、誰かが鍵を落としている。
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは関係ありません。
題材の着想: ウィキペディアの記事「筑前岩屋駅」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
投稿は公開されます。個人情報や誹謗中傷は書かないでください。作品はフィクションです。