初日のままの町
鍵を持った男が、下りたシャッターの前で止まっていた。末広商店街の、アーケードが切れるあたりだ。鍵を鍵穴に差しこもうとして、その手が動かない。近づくと、指の先が白かった。血の気が、まるでなかった。差しこむ寸前の形のまま、固まっている。わたしはその前を、二度通った。二度とも、男は同じ形だった。
店はどこも閉まっていた。休みだから、とはじめは思った。でも八百屋の前の段ボールは、濡れていない。ゆうべは雨だった。地面はまだ湿っている。段ボールだけが、乾いていた。指で触ると、ひやりと冷たい。今日の気温の冷たさではなかった。昨日のまま、止まっている冷たさだ。
喫茶店の主人に聞いた。今日は三連休の初日だ、と言う。初日は何もしなくていい日だ、とも言う。まだ二日あるから、初日は数に入らない。だから始めなくていい。みんなが同じ言い方をする、と主人は笑った。笑ったのに、目のふちだけが動かなかった。
パン屋の娘にも聞いた。初日は寝るための日です、と娘は言った。二日目に洗濯して、三日目に出かける。初日には、何も入れない。予定を入れたら、初日でなくなるから。娘は椅子に座ったまま話した。その足もとに、食べかけのパンが落ちていた。何日前のものかは、分からなかった。
翌朝、またパン屋へ行った。娘は同じ椅子に、同じ姿で座っていた。頬が、こけていた。昨日より、あきらかに痩せている。唇が乾いて、ひび割れていた。それでも娘は、二日目になったら食べます、と言った。でも、二日目は来ていない。娘の膝の上で、両手が鍵を持つ形に丸まっていた。何も、持っていないのに。
男のまわりには、猫が三匹いた。三匹とも、男の足もとで眠っていた。猫は、動くものの近くで眠る。動かないものの近くでは眠らない。それなのに、三匹とも眠っていた。日が傾くと、猫の影だけが長く伸びた。男の影は、伸びなかった。伸びない影を、わたしはしばらく見た。それから、見るのをやめた。
初日という言葉は、ただの順番だ。一日目、という意味しか持たない。わたしは聞き取りのあいだ、それを三度言った。三度とも、誰もうなずかなかった。順番にすぎないと知る者の声は、この商店街では届かない。届かないのではなく、はじめから聞こえていない。正しく知っているほど、わたしには何もできなかった。
わたしは家へ帰ろうとした。でも足が、次の一歩を出さなかった。今日はまだ初日だ、と頭の中で声がした。始めなくていい、まだ二日ある、と。気づくと、わたしはまた商店街に立っていた。そのあいだの記憶がない。書けないことは、書かないでおく。手のひらを見ると、指が鍵を持つ形に、少しだけ丸まっていた。
局へ戻って、早瀬に紙を見せてもらった。その語が、どれだけ同じ形で使われたかを示す線だ。ふつうは、使われなくなれば線は下がる。でもこの線は、下がるところで下がらず、平らに寝ていた。灯は T-20260717-01 で受けてある。わたしは番号だけ書いて、あとは書かなかった。数字を並べると安心する人がいる。早瀬はその一人だ。わたしは、安心しなかった。
桐生に、いつまで続くのかと聞かれた。休みが終われば終わります、と答えた。でも、その言い方が正しいかは分からない。終わるには、まず始まっていないといけないからだ。次の朝、男の前にしゃがんだ。何と呼ばれたいですか、と尋ねた。男は答えなかった。鍵はよく磨いてあった。毎日拭いていた手が、いまは動かない。
男はわたしの顔を見た。それから、鍵穴のほうを見た。まだ開けていないから、まだ始まっていない、と男は言った。始まっていないものは、終わらない、とも言った。声は、鍵の金属みたいに冷たかった。わたしは返事をしなかった。返事をしないほうがいい相手が、たまにいる。
休みが終わる頃、人々が初日と言わなくなった。言う相手が、いなくなったからだ。誰も言わなくなると、男の輪郭がぼやけた。ぼやけて、シャッターの錆と同じ色になった。鍵の音が、一度だけした。それきりだった。錆は、いまも同じ場所にある。
次の朝、商店街は開いた。みんな疲れた顔で、休んだ覚えがない、と言う。でも暦では、休みは終わっている。三日あった休みを、誰も一日も使っていない。パン屋の娘は、まだあの椅子に座っていた。二日目を待ったまま、立てなくなっていた。頬はこけたままだ。娘の分の二日は、どこへも行かなかった。戻ってもこなかった。
喫茶店の主人は、いまはもう初日と言わない。忘れている。忘れた人は困らない。困らない商店街を、わたしは月に一度だけ歩く。シャッターの錆は、年ごとに濃くなる。鍵の形をした、濃い部分がある。指で触ると、冷たい。今日の気温では、説明のつかない冷たさだ。
局の裏の駐輪場に、まだ名前のついていない工具が一つ置いてある。誰のものでもない。
この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは関係ありません。
投稿は公開されます。個人情報や誹謗中傷は書かないでください。作品はフィクションです。