笑っていると思われた顔

笑っていると思われた顔

語現体鴇江川看取り

雨あがりの硝子戸に、朱いものが一つ、貼りついていた。人の顔の形だと分かったのは、少し後だ。鴇江川の水面が、その同じ朱を細かくちぎって流しはじめてからだった。笑っている、と誰かが言った。それから、笑っている、と別の誰かも言った。

橋の上に、人が並んでいた。みんな手のひらの明かりを覗きこんでいる。明かりの中の小さな顔を指で押しては、笑っている、笑っていると言い合う。白い息みたいな声が、水の匂いといっしょに、欄干のあたりへ溜まっていく。今日は世界絵文字デーという日だそうだ。金色の細い光が、川下へひとすじ流れた。

その小さな顔は、笑ってなどいない。口の端の線は、笑いではない。躊躇いのつもりで引いたのだ。図案を作った人は、聞き取りの席でそう言った。白い指を膝に置いたまま、二度くり返した。でも二度とも、机の向こうの誰も信じなかった。

正しい意味を知る者の声は、この街では紙より薄い。躊躇いだと知る人は、たった一人。笑いだと思う人は、何万人もいる。どちらの像が体を得るかは、はじめから決まっていた。わたしは資料の頁をめくり、めくる音だけを聞いていた。窓の外は、鈍い銀色だった。

帰り際、その人はもう一度だけ言った。あれは迷っている顔なのです、と細い声で言い添えた。でも、廊下の窓から夕方の赤い光が差してきて、その人の頬を照らした。すると口の端が、わずかに持ち上がって見えた。作った本人の顔まで、笑いに読み替えられていく。わたしは、自分の目のほうを疑うことにした。信じることと、見えることは、たいてい別のものだ。

硝子に浮かんでいた顔が、硝子から剥がれた。そして、雨の残る舗石の上へ降りた。丈は子供ほど、色は薄紅。輪郭のふちだけが、濡れたように光っている。近くを通ると、生あたたかい匂いがした。人の体温より、少しだけ高い匂いだ。口の端が、上がっている。上がったまま、下がらない。

それが人のあいだを歩くと、すれ違う者はみな、つられて口の端を上げた。上げてから、なぜ上げたのかを忘れる。忘れた顔がいくつも並んで、欄干が薄紅色の列になった。青い庇の下で、子供が一人だけ、口の端を上げなかった。ただ首をかしげて、見送っていた。

母親が、その子の肩を引き寄せて言った。ほら笑ってごらん、と。子供は、やっと笑ってみせた。そのとき、子供の顔と薄紅の顔が、そっくり同じ形になった。でも薄紅が通り過ぎても、子供の口の端は下がらなかった。もういいよ、と母親が言っても、下がらない。子供は両手で口の端を押し下げようとした。それでも下がらない。上がったまま、目だけが、泣いていた。

わたしは薄紅の顔の前に、膝を折った。あなたはどんな顔をしているつもりですか、と尋ねた。答えはなかった。ただ口の端が、ほんの少し下がろうとした。でも途中で、また上がった。下がりきることを、誰も許していないのだと思った。許していないのは、笑っていると読んだ、何万人の目だ。

局の灯としては、T-20260717-02 の番号を切ってある。早瀬が刷ってきた紙に、細い線が引いてあった。その語が、どれだけ同じ形で使われたかを示す線だ。線は夜になっても、下を向かなかった。川の水位みたいに、じっと同じ高さで止まっていた。紙は薄墨の色で、指の跡がついていた。

白河が横で、紙より薄い、とつぶやいた。さっきわたしが言った言い方だ。わたしは訂正しなかった。訂正すれば、その言い方が彼のものになる前に、わたしのものだと決まってしまう。決まったものは、あとで動かせない。

日が変わると、絵文字の日は次の年まで来ない。言う人が減るにつれ、薄紅は褪せていった。水に溶ける絵具のようだった。そして舗石の目地へ、朱の粉になって沈んでいった。消えたのではない。沈んだだけだ。雨のたびに、少しずつ、目地の奥へ落ちていく。橋の下で、水が一度、金色に鳴った。

青い庇の子供は、あれから母親と、この橋を通らない。でも一度だけ、路地で見かけた。口の端は、まだ上がったままだった。何日たっても下がらないのだ、と母親が言っていた。ごはんのとき、うまく口が閉じない、とも。子供は泣きながら、笑っている顔をしていた。誰が引いた線なのかは、子供にも分からない。

帰り道で、白河がふり返って言った。七尾さん、さっきからずっと笑っておられますよ、と。わたしは笑っていない。街灯の下の硝子戸に、自分の顔が映っていた。硝子の向こうは真っ暗で、映った顔だけが、水にひたした紙のように白い。口の端が、上がっていた。指で下げようとした。下がらなかった。誰が引いた線なのかは、分からなかった。

末広町の路地の奥で、誰も点けた覚えのない灯りが一つ、ゆうべから点いたままになっている。

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