タイブレークと、火を止めたあとの鍋
献立の紙を持って来る人がいる。八月十八日、午後六時十分である。第四課の窓口に置かれたのは、一枚の手書きの紙だった。上から順に、材料、下ごしらえ、手順、保存方法と並んでいる。よくある家庭の書き方である。困っているのは中身ではなく、この紙が家に十七枚あることだ、と女は言った。
材料の項から読む。水、昆布、鶏の骨、塩、そして「延びた分」と書いてある。分量は書かれていない。延びた分、とだけある。女は自分で書いたと言った。書いた覚えはあるが、そのときに何を計ったのかは思い出せない、とも言った。
下ごしらえの項に移る。骨は湯通しする。昆布は前の晩から水に浸けておく。ここまでは普通である。次の行に、「終わらなかったものを刻んで入れる」と書いてある。わたしは、終わらなかったものとは何ですか、と尋ねた。女は少し考えて、昨日の続き、と答えた。
手順の項は数字で区切られている。一、水から火にかける。二、浮いたものを取る。三、決まらなければ足す。三の行だけ、何を足すのかが書かれていない。女は、足せば分かる、と言った。実際に足したのかと聞くと、足しました、と即答した。何をですか、とは聞かなかった。
火加減の項で、それは出た。とろ火のまま、と書いてある行の下に、鍋の中で湯が動き続ける、と付け足されている。女の家では、火を止めたあとも鍋の中身が動いていた。表面がゆっくり回る。止まらない。触ると温かい。冷めてもいない。台所に立った者にだけ見え、写真には写らない。姿と呼べるものは無く、鍋の中で回る動きだけがある。
語の話をする。タイブレークは、勝負が決まらないときに、短い手順で決着をつけるための仕組みを指す。終わらせるための語である。ところが今週の鴇江市では、この語が逆の意味で使われた。延びること、終わらないことを言うために使われた。試合の話ではなく、会議や当番や順番待ちの話でこの語が出た。同じ言い方が、同じ像を伴って市内に広がった。
実体化したのは語の意味ではない。話した人たちが揃って持った誤解のほうである。だから正しい意味を知っている者ほど、この件では何もできなかった。競技の規則を暗記している人が来て、これは終わらせる仕組みですと説明した。説明は正しかった。鍋は回り続けた。
早瀬が収束の予測を持って来た。曲線は下がっている。来週には言及が減り、動きも弱まる、という読みである。ただし曲線には、いつもの小さな揺れが乗っていた。理由の分からない揺れで、どの語の予測にも同じ幅で出る。早瀬は毎回それを注記に書き、毎回、原因は不明と添える。
白河が、鍋を捨てればいいのでは、と言った。わたしは、捨てても紙が残ります、と答えた。白河は、では紙を捨てます、と言った。わたしは何も言わなかった。書いた者が覚えている限り、紙は増える。増える理由を説明すると、その説明どおりのものになる。
数字を出しておく。八月十四日から十八日までの五日間で、市内から出た投稿は九千七百件である。そのうち千三百八件にこの語が含まれていた。うち八割が、競技と関係のない文脈で使われている。閾を超えたのはこの偏りだ、という見方が出ている。見方であって、確かめられてはいない。
確かめられない部分を書く。鍋の中身が回る向きは、家ごとに違う。同じ家の中でも、火を止めた時刻によって変わる。女の家では十七枚の紙のうち十一枚に火加減の項があり、十一枚とも書き足しの筆跡が本人のものだった。本人は書いた記憶が無い。記憶が無いのに筆跡が合う。届出書の再現手順の欄は、今回も空欄で出された。
資料室に、似た形の記録がある。ある語現体の記録で、現れた場所が石灰洞だったものだ。石灰岩の採掘が進んで、山ごと無くなった。無くなったあとも、記録の欄には現れる場所として同じ地名が残っている。局はその欄を消していない。消せば、そこに何も無かったことになるからである。絶滅の分類を並べたレッドリストと同じで、名前を残すことだけが、こちらにできる仕事なのだと老松は言っていた。
わたしは鍋の前でしゃがんで、何と呼ばれたいですか、と尋ねた。返事はない。いつも返事はない。それでも尋ねる。尋ねた事実は書かず、尋ねたという行を空けておく。答えを記録すれば、その答えが輪郭になる。
保存方法の項に書き足したのは、三行だけである。増える速さを測ること。書いた者を訪ねること。終わるまで、そばにいること。三行とも、終わらせるための手順ではない。この種のものに、終わらせる手順は無い。それでも記録には残す。残すことが、こちらにできる唯一のことである。
残ったら、と紙の最後に書いてある。そのあとが空いている。何を残すのかも、どうするのかも書かれていない。書いた者は、そこにはまだ名前がない、とだけ言った。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「コゾノメクラチビゴミムシ」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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