裏切り者と、書き換わる「これまで」
裏切り者、と印刷所の男が言った。八月三日の夜、第四課の受付は蛍光灯が一本切れたままだった。男は自分が呼んだのだと言い、それから黙った。以下は、その届出から六日間でわたしが聞き取った内容の写しである。整理番号は T-20260809-02、記録の締めは八月九日である。対処の報告ではない。第四課に対処の権限は無い。読む側がそこを取り違えると、この写しは前例として機能してしまう。
対象の語は「裏切り者」である。辞書の意味は、約束や信義に背いた者、である。背く前は背いていない、というのが語の中身である。ところが人はこの語を、別の意味で使う。最初から敵だった者、本当の姿を隠していた者、という意味である。背いた瞬間に変わったのではなく、はじめからそうだった、という像がそこにある。つまり、関係の変化を正体の露見と読み替えている。読み替えは間違いだが、間違いのほうが広く共有されていた。
最初の届出は八月三日、午後八時四十分に来た。届出者は市内の印刷所の従業員である。前日の夕方、同僚を一度だけ裏切り者と呼んだ、と述べた。呼んだ理由は述べなかった。翌朝、その同僚の入社時の書類を出したところ、身元保証人の欄の名前が別のものになっていた、というのが届出の内容である。書類の作成日は五年前である。訂正印は無く、筆跡も同じであった。
わたしは規定どおりに尋ねた。痛みはありますか。彼は、ありません、と答えた。困っていますか、と尋ねた。彼は少し黙って、困ってはいません、と答えた。この答えが出たときは、収束が遠いと考えてよい。困っていない者は、語を使うのをやめないからである。
八月五日までに、同種の届出が十一件来た(受理簿 T-20260803-02 から T-20260805-04 まで)。内訳は、勤務先の記録が四件、学校の名簿が三件、家庭の写真の裏書きが二件、残る二件は届出書の記入が途中で止まっていた。止まっていたのは、誰を呼んだかの欄である。空欄のまま、記録のほうだけが変わっていた。呼んだ側が相手を思い出せなくなる、という順序である。
現地は市の東、旧印刷所の倉庫であった(所蔵区分は市有・欠番一二七)。姿は無い。ただし、その場で誰かが誰かを裏切り者と呼ぶと、呼ばれた側の過去の記述が動く。動いたあとの記述は、はじめからそうであったという形に整う。前後の書類とも矛盾しない。矛盾が残らないので、書き換えられたこと自体を示す痕跡も残らない。わたしは尋ねた。何と呼ばれたいですか。返事は無かった。返事の代わりに、手元の記録簿の整理番号が一つ繰り上がっていた。
八月六日、わたしは市民向けの掲示を出した。裏切り者という語は、背いた事実を指すのであって、その人の元の姿を指す語ではありません、と書いた。結果は逆であった。掲示を読んだ人ほど、では確かめよう、と言って過去の書類を出した。出した書類は、出した時点で書き換わっている。正しく分かっている者から先に確かめ、確かめた者から先に失う。理解は歯止めにならない。理解は、確かめる理由になるだけである。
統計官の早瀬による測定では、八月二日から八日までの七日間で、市内の会話・掲示・投書における当該語の使用が例年の六・二倍に達していた(第四課照会 二〇二六年八月八日付)。閾を超えたのは八月四日と推定されている。使用が落ち着けば書き換えは止まる、という見通しが局内で示されている。見通しであって、確認ではない。早瀬はいつもそう書く。数字にしておけば、後任が判断できると考えているためである。
確認ができないのには理由がある。書き換えを検証するには、書き換わる前の写しと突き合わせればよい。八月七日に照会し、市の書庫にある写しを取り寄せた。写しも同じ内容になっていた。作成年月日の異なる三通で試したが、三通とも同じであった。つまり、後から作られた記述が、先に作られた記述を追いかけて揃えている。呼ばれた者が、呼ばれる前の自分を示す手段は、この時点で一つも残っていない。
行えることは三つである。書き換わった記録を数えること。呼ばれた者を一人ずつ訪ねること。終わるまでのあいだ、そばにいること。三つとも、終わらせるための行為ではない。これを読むあなたが、この写しを対処の前例として引くことのないよう、ここに明記しておく。数えることは対処ではない。数えたという記述が残るだけである。
八月九日、午後七時。印刷所の従業員に三度目に会った。一度目は、書類が変わったことを気味悪がっていた。二度目は、慣れました、と言った。三度目には、同僚の名前を思い出せなくなっていた。名前が消えても、呼んだという事実だけは残っている。残っている、という言い方が正確かどうかは分からない。彼はそれを覚えているのではなく、そこだけが減っていない、という様子であった。
帰りぎわ、倉庫の扉に手をついた。扉は、この時季にはあり得ないほど冷たかった。手を離したあとも、その冷たさだけが、しばらく指の側に残った。
末広町の自動販売機が、今週から釣り銭を一枚多く返す。誰も局には届け出ていない。
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