ハグの日と、離れられない距離

ハグの日と、離れられない距離

語現体鴇江市記念日距離

ハグの日ですね、と白河が言った。八月九日、午前九時二十分だった。第四課の窓の外は白かった。わたしは、そうですね、とだけ答えた。答えながら、その語を今朝から何度目に聞いたかを数えた。四度目だった。

ハグの日は語呂合わせである。八をハ、九をグと読む。それだけの日である。抱きしめようという呼びかけであって、抱きしめれば伝わる、とは一言も言っていない。だが人はこの語を、触れれば分かり合える日、として使う。触れることと伝わることは別である。別なのに、人は同じものとして扱う。扱われた像のほうが、語の中身より強い。

最初の届出は前日の夕方に来た。記録簿には T-20260809-01 とある。日付は今日である。受理は昨日である。灯番号の日付が一日ずれた記録は、この夏に入って八件目になった。

届出者は市立図書館の職員だった。前日の閉館後、同僚と別れぎわに肩を抱いた。ハグの日の前夜だから、という理由だった。それだけである。翌朝、彼女は駅で気づいた。同僚は自宅にいるはずなのに、肩のあたりに同僚がいる。距離が変わらない。歩いても、電車に乗っても、同じところにいる。

わたしは規定どおりに尋ねた。痛みはありますか。彼女は、ありません、と答えた。困っていますか、と尋ねた。彼女は少し黙って、困ってはいません、と答えた。それが一番厄介な答えである。

同じ日の昼までに、似た届出が六件来た。部活の後輩と抱き合った高校生。孫を抱いた老人。犬を抱いた男。四件目からは、届出書の記入欄が途中で止まっていた。誰と触れたかの欄が、空白のままだった。空白のままで、距離だけが固定されていた。

白河が、触らなければいいのではないですか、と言った。わたしの言い回しをそのまま使っていた。訂正しなかった。正しいが、役に立たない。人は触るのをやめられない。今日がその日だと言われた日には、なおさらやめられない。

わたしは市民向けの掲示を作った。ハグの日は語呂合わせであり、触れることに特別な効果はありません、と書いた。掲示を読んだ人ほど、では試してみよう、と言って触った。理解は歯止めにならない。理解した人は、理解したうえで確かめたくなる。正しく分かっている者から先に飲まれていく。

現地は市の南、旧図書館の分館だった。閉架書庫の突き当たりに、それはいた。姿はない。ただ、そこで誰かと誰かが触れると、その二人の距離が動かなくなる。動かなくなる場所の輪郭だけが、はっきりしていた。わたしは尋ねた。何と呼ばれたいですか。返事はなかった。返事の代わりに、わたしの右肩のあたりに、誰かがいる感じが残った。誰かは分からない。分からないまま、いることだけが分かった。

早瀬の測定では、八月一日から九日までの九日間で、市内の窓口・商店・掲示板における「ハグ」の使用が例年の五倍に達していた。語呂合わせの日を先取りする言い回しが同じ像で共有され、閾を超えた。八月中旬に言及が減れば固定は解けると予測されている。予測であって、確認ではない。

解けた例は、いまのところ一件もない。固定された二人が離れると、その距離のぶんだけ、あいだに何かが挟まる。挟まったものが何であるかは分かっていない。図書館の職員は、通勤の途中でそれに触れてしまった。触れた瞬間、そのあいだにあったものとの距離も固定された。増えていく。

撃退の方法はない。この種のものに、そもそも方法という語が当てはまらない。できるのは三つだけである。固定された距離を測ること。固定された者を一人ずつ訪ねること。終わるまでのあいだ、そばにいること。三つとも、終わらせるための行為ではない。

図書館の職員には三度会った。一度目は、同僚がそばにいる感じを気味悪がっていた。二度目は、慣れました、と言った。三度目には、同僚の名前を思い出せなくなっていた。名前は忘れても距離は残る。距離だけが残る。それは、触れれば伝わるという像が、そのまま形になったもののように見えた。

帰り道、分館の柵の外に灯りが一つあった。前に来たときには無かった。誰も見ていない場所で灯りが増えるのは、この街ではよくあることである。よくあるが、記録には残す。

局を出るとき、白河が、お疲れさまです、と言って手を伸ばしかけ、途中で止めた。わたしは、そうですね、とだけ答えた。答えてから、今日その語を何度聞いたかを数え直した。九度だった。九度目まで、誰にも触れていない。

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