座布団運びと、名札の下の空き

座布団運びと、名札の下の空き

語現体鴇江市座布団運び記録

八月三十日の夕方、末広町の外れにある雑木林で受理票を書いた。この記録を書いている時点で、届出人の標本箱は四箱ある。空でない列は、四箱ぶんで二百十一。わたしは灯番号にT-20260830-02と記した。届出人は五十代の男性で、三十年ここで虫を採っている。

彼は自分の採集地を白い町と呼んでいた。夜に灯りを点け、その下に白い布を張る。虫はそこへ集まる。布の上だけが明るいので、遠くから見ると町の灯りに見えるのだという。場所は二つの川の合流点にあたる。樹液の出る木が三本あり、彼はその三本の位置を歩数で暗記していた。入口から一本目まで百四十歩、そこから二本目まで六十歩である。

彼は名前を知っていることに自信があった。捕虫網に入った時点で、見なくても分かると言った。三十年ぶんの図鑑が頭に入っている、と。ラベルは採った当日のうちに書く。迷った個体だけ、書かずに別の段へ置く。その段は箱の右下と決めてあった。

八月の下旬から、市内で座布団運びという語の使用が増えた。管理局の集計では、二十四日から三十日までの七日間で、例年の六倍を超えた。増えた場所に偏りはない。職場でも、店先でも、家の中でも同じ割合で増えている。誰かが広めたのではない。全員が少しずつ言った。

座布団運びは、座布団を運ぶ役の人を指す語である。持ってくることと、持っていくこと、その両方をする役である。ところが集計した使用のうち八割で、話し手は持ってくるほうの話をしていなかった。黙って持っていかれた、という意味だけで使っていた。運ぶという語の中身から、往きのほうが落ちた。落ちたことに、使っている側は気づいていない。

像はその形で揃った。下にあるものを、断らずに抜く。

彼が最初に気づいたのは、展翅板の上ではなかった。標本箱のほうである。ラベルは残っている。針も残っている。三角紙も畳んだまま重ねてある。ただ、ラベルの下に何もない列が出はじめた。針は刺さったままで、その先に何も付いていない。

抜かれるのは、彼がいちばん自信のあった段から順だった。名前を即答できたもの。図鑑と照らす必要がなかったもの。八月二十七日に十一、二十八日に九、二十九日に十四。数え直すたびに、右下の段だけが動いていない。迷って保留にしてあった段は、いまも埋まっている。

わたしはそれを彼に言わなかった。言えば、彼は保留を増やす。増やせば、その保留もいずれ自信に変わる。彼が正しく分類できるようになるほど、抜かれる列は増える。三十年かけて覚えた側から順に、無くなっていく。

彼はその夜も灯りを点けた。布に来たのは十九。三十年の平均より少ない。少ないのは雨のあとだからだ、と彼は言った。理由を言えるうちは、まだ持ちこたえている。

一つだけ、図鑑と合わない個体が来た。彼は網を持ったまま、しばらく動かなかった。名前が出てこないと言った。三十年で二度目だそうである。彼はそれを右下の段へ置いた。書かずに置いた段は、いまのところ抜かれていない。

第四課にできることは決まっている。使用が減る見込みを出し、箱の中身を数え、記録に残す。数えかたを彼に渡した。ラベルごとに、下にあるものを一つずつ指で触って確かめる。目で見ない。目は、ラベルを読んだ時点で下も見たことにしてしまう。名前を読むと、そこに在ることまで読んでしまう。

推計は出せる。九月に入って言及が減れば、抜かれる速さは落ちる。予測であって、確認ではない。局は隠すことと数えることしかできない。止める手立ては、この二十年の記録のどこにも書かれていない。

数えたぶんだけ、分からないことが残った。箱の重さが変わらない。抜かれた列があっても、量りは同じ値を返す。二百十一から百七十七まで減った日も、目盛は前の週と同じところで止まった。数は減っているのに、重さの側では一件も減っていない。彼は三十年ぶん同じ量りを使っている。その帳面で、単位の書き方が途中から変わっていることに、わたしのほうが気づいた。古い頁はグラムと書いてある。新しい頁は数字だけである。彼は両方を同じものとして足していた。どちらが正しいのかは、本人にもわたしにも決められない。

帰る前に、四箱を通しでもう一度数えた。百七十七。三十分前に数えた値と同じである。同じ値が二度出たのは、この一週間ではじめてだった。彼は安心した顔をした。わたしは安心の理由を書かなかった。止まったのか、数えかたが追いつかなくなったのかは、同じ数字では区別できない。

帰りぎわに尋ねた。何と呼ばれたいですか。返事はなかった。灯りに集まっていた羽音が、そのあいだだけ止んだ。答えは記録に残さない。

一九九八年の記録を戻って見た。末広町の空き店舗について、灯番号が一件だけ欠けている。前後の番号は詰まっている。抜けた一件だけ、下に何もない。

林の入口に自動販売機が一台ある。今年に入ってから、いちばん下の段だけ売り切れの表示が消えない。

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題材の着想: ウィキペディアの記事「ベオグラード」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。

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