ハピサンと、乾かない当番
八月三十日の午後、市立の中学校から受理票が回ってきた。届出人は生物部の顧問である。三十代の男性だった。夏休みの最後の週で、廊下に人の気配がなかった。わたしは灯番号にT-20260830-01と書いた。
部室は一階のいちばん奥にある。鍵は当番制で、朝いちばんに開けた者が黒板の隅に名前を書く決まりだった。顧問はその黒板を指した。八月のはじめから、どの名前の横にも同じ四文字が並んでいる。ハピサン、と書いてある。
「ハッピーサンシャインデーの略です」と顧問は言った。八月三十日の記念日である。八をハッピー、三十をサンシャインと読む語呂合わせで、笑顔の日という意味だと説明されている。制定した団体ははっきりしない。顧問はそこまで正確に知っていた。
ところが部員たちは、そう受け取っていなかった。
部室には海水の水槽がある。春の合宿で、市外の岩礁から採ってきた小さな巻貝を飼っていた。この貝は水の中ではなく、水面より上の乾いた岩に貼りついて暮らす。潮上帯という。部員はその言葉を覚えたてで、よく使った。
だれかが言いはじめた。ハピサンは、日に当てて乾かすことだ、と。サンシャインを陽に当てる意味に取ったのである。乾いた場所にいる貝の話と、記念日の名前が、部内で一つに寄った。合言葉としては具合がよかった。朝、鍵を開けた者がハピサン、と言う。水槽の照明を点けて、水のない側を拭く。それが当番の仕事の名前になった。
「ちがう、笑顔の日だと何度も言ったんです」と顧問は言った。
正しく知っていたのは、この人だけだった。そして正しさは何も止めなかった。むしろ顧問が訂正するたび、部員はその語をもう一度口に出した。訂正は使用である。使用は像を濃くする。
九日目から、水槽の外に貝が増えはじめた。ガラスの外側、水のない乾いた面に貼りついている。数えると、内側の数は減っていない。外にいるぶんだけ、多い。
わたしは道具棚の記録帳を借りた。部員は毎日、貝の数と殻高を測って書いている。殻高というのは、貝の縦の長さのことである。八月のはじめは、ばらばらだった。いまは全部そろっている。一ミリずつ、そろっていく。
部室の掲示板には、道具の数を書いた紙が貼ってある。ピンセット四本、ライト二個、網三枚。数はどれも合っていた。合っていないのは貝だけである。部員は道具を数えることに慣れていて、貝も同じ紙に足していた。そのせいで、増えたことがすぐに分かった。数える習慣がなければ、たぶん誰も気づかなかった。
当番だった二年生の女子に話を聞いた。彼女は最初、貝が水槽から出たのだと思ったという。それで蓋の隙間を目張りした。次の日も外の数は増えた。
「どこから来るんですか」と彼女は聞いた。
来るのではありません、と答えた。乾いた面は、乾いているというだけで、あの語にとっては住むところになる。あなたたちが毎朝そこを拭いて、乾いた場所だと確かめている。確かめるたびに、そこが場所になる。
彼女はしばらく黙って、それから、じゃあ拭くのをやめますか、と言った。やめても戻りません、と答えた。もう場所はある。
一年生の男子が、水槽の前で殻高の測り方を教わっていた。ノギスの当て方を先輩が手を添えて直している。二人とも、外側の貝には触れなかった。触れてはいけないと言われたのではない。誰も言っていないのに、触れないことになっていた。そういう決まりのほうが、書かれた決まりより早く広まる。
わたしはガラスの外の一つに手を近づけた。動かない。殻の縁だけが、わずかに白く乾いている。
「何と呼ばれたいですか」と尋ねた。
答えはあった。書かない。
顧問は、三年生が今週で引退すると言った。掲示板の名簿から、三人ぶんの名前が消える。当番表も作り直す。「ハピサンを書く人がいなくなります」と顧問は言った。それで終わりますか、と聞かれた。
終わりません、と答えた。書かれなくなった語は消えるのではなく、下に沈む。この学校が建っている土地に沈む。次にだれかが同じ略し方をしたとき、下から出てくる。それだけである。わたしたちにできるのは、そのときまで数えておくことだけである。
統計官の早瀬に数値を回した。市内の「ハピサン」の使用は、八月の四週で例年の何倍かに増えている。ただし、その大半が一つの校舎の中だった。母数の小さい語が、狭い場所で速く濃くなる例である。早瀬の収束予測のグラフには、いつもの小さなノイズが乗っていた。理由は書いていない。
帰りに末広町の廃商店街を通った。シャッターの前を通るとき、いつもより一枚だけ余分に閉まっている気がした。数えなかった。
校門を出るころ、下校放送が鳴った。乾いた音だった。
(余白)くもりだった。いや、うすばれだった。
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題材の着想: ウィキペディアの記事「タマキビ科」(ウィキペディア日本語版 / CC BY-SA)。本文は当サイトの創作で、記事の文章は転載していません。
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