迎え火と、凡例にない道

迎え火と、凡例にない道

語現体鴇江市迎え火地図の改版

「この道が、ないんです」と、窓口に来た男が地図を広げた。鴇江市の北にある団地の自治会長だった。八月十二日の夕方である。指の先は地図の北の端にあった。団地の外れから斜面をまっすぐ上る線が、一本だけ引かれている。受理の記録に打った灯番号の日付は、十三日になっていた。一日ずれた記録は、この夏に入って四件目である。

わたしは同じ地図を出して並べた。わたしの分にも、その線はあった。二枚を重ねると、線はぴたりと合った。誤植ではない。

ことはが横から地図をのぞき込んで、凡例を先に見た。「線種が合いません」と言った。地図の凡例には、国道、市道、私道、歩道、階段の五種類が載っている。その線はどれとも違う太さで引かれていた。注記は三字だけで、通行可、とある。

自治会長の話は、火の使い方から始まった。以下はその語りの引き写しである。

「うちの団地では、迎え火のことを少し違う意味で使ってきました。ふつうは、帰ってくる者に家の場所を知らせる火でしょう。目印です。それだけの言葉です。ところがうちでは、帰る者の通る道を決める火だと言いました。火を置いた場所から、道が伸びると考えたのです。だから置く位置に決まりがあります。玄関の正面ではなく、北へ向けて少し寄せます。寄せ方まで当番表に書いてあります。わたしが子どもの頃には、もうそうでした。理由を聞いたことはありません。聞くものではないと思っておりました。当番表には、火を置く位置と、そこから伸びる道筋を書く欄があります。わたしはその欄を、四十年ぶん書いてきました。書式は一度も変わっておりません。判子の位置まで同じです。それだけです」

四百八戸が、少なくとも四十年、同じ像でその語を使った。誤りは道のところにある。火は道を作らない。それでも語現体は道のほうで揃った。

地図の話に戻る。市はいま、紙の地図をデータベースに移す作業をしている。行政の効率化のためだと説明されている。移すときに版下を使うのだが、北の外れの部分だけ、自治会が長年配ってきた手書きの図が下敷きになっていた。誰がいつそう決めたのかは、記録に残っていない。

「去年、市に問い合わせました」と自治会長は言った。「そうしたら、担当の方が説明責任がありますからと言って、調べてくださいました。それで分かったのです。あの線は、誰も測っていません。等高線の上を無視して、まっすぐ上っております。あんな斜面に、まっすぐな道は引けません」

八月十三日の夕方、わたしは団地の外れに立った。斜面は雑木で埋まっていて、道らしいものは見えなかった。日が落ちて、各戸の前に火が置かれた。当番表のとおりの位置である。

その時刻に、道が出た。

雑木のあいだが割れて、幅一メートルほどの地面が現れた。踏み固められている。地図の線と、同じ場所だった。まっすぐ上っている。

道の表面は、雑木の根が出ていない。両側の地面には根が張っているのに、幅一メートルの帯だけが平らである。土の色も違った。手を触れると乾いていた。その日は昼過ぎまで雨が降っていて、周りの土はまだ湿っていた。

上を見た。道は斜面の上のほうで一度も曲がらず、そのまま雑木の暗がりに入っている。懐中電灯を向けても、光が届いた先に道が続いているだけで、終わりが見えない。地図の線も、紙の端で切れていて、その先が描かれていない。

ことはが道の入口に立って、いつもの質問をした。何と呼ばれたいですか。返事は無い。ことはは記録を取らなかった。この質問の答えは記録しない決まりになっている。

自治会長は道をよく見ていた。わたしにも見えた。ところが、同行した若い職員には見えなかった。彼は迎え火を辞書どおりの意味で覚えていた。目印の火です、と彼は言った。正しい。正しいので、彼の目の前には雑木しかなかった。彼は道の上を歩けない。誰かが上ってしまっても、迎えに行くことができない。

翌朝、斜面を確かめた。下りの足跡が一組あった。上りの足跡はどこにも無い。誰が上ったのかは分かっていない。

市の担当者からは、次の改版で線を消すと連絡があった。凡例に無い線種は残せない、という理由である。紙の地図は在庫がなくなり次第、順次差し替えるという。データベースのほうは、来月の更新で線が消える。線が消えれば像も薄れると予測されている。予測であって、確認ではない。自治会長には、当番表の欄をどうするかを尋ねた。書き方を変えたら道が変わるのかと聞き返された。答えられなかった。四十年ぶん書いてきた者にだけ、あの道はよく見えている。よく見えている者に、書くのをやめてくださいとは言いにくい。

余白。市庁舎の三階の廊下は、夜になると照明が半分落ちる。今週から、落ちたはずの区画に灯りが一つ増えている。誰も点けていない。

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